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幼い頃にたしか一度は見たはずで、ところどころは覚えていたのだけれど、ほとんどさっぱり忘れていた。
最近、南北戦争の頃の歴史にはまっていたので、もう一度見たいと思って見てみた。
たしかに、とてもよくできていて、四時間というけっこう長い映画なのだけれど一気に見させる。
ただ、見ていて、昔は気付かなかったことに多々気づいた。
まず、最近、南北戦争の頃の軍歌にこっていたせいか、バックにしばしば流れている音楽が南部の国歌だった「ディキシー」であること。
さらに、ときどき流れている歌は「ジョニーが凱旋する時」(When Johnny Come Marching Home)であることがわかった。
昔見た時は全然知らなかったので、年齢を重ねて少しわかることも増えたということだろうか。
また、南軍のために募金の舞踏会が開かれているシーンで、南部の大統領のジェファーソン・デイヴィスの肖像画が飾ってあるのにも気づいた。
これも昔はよくわからずに見ていたと思う。
シャーマン将軍のアトランタ攻略という歴史的背景も、昔はよくわからずに見ていたけれど、今回はわかって見ることができた。
そして、何よりも、ある程度歴史の知識が増えた今の視点から見た時に、なんとも気になるのは、なんといっても冒頭に流れる一節だった。
そもそもタイトルのきっかけにもなっている一節である。
“A civilization gone with the wind.”
つまり、「文明は風とともに去りぬ」、ということだ。
その「文明」とは何かということも直前の文章で流れていて、それによると、かつて南部に存在していた、騎士道と綿の国、紳士と淑女と主人と奴隷がいた夢のような国、とのことである。
フレデリック・ダグラスの自伝などを読んでからみると、いかに黒人奴隷が当時の南部でひどい苦しみにあっていたかを思うと、奴隷制こそが野蛮そのものだったはずなのに、そうした批判的な視点が何もなくて「文明」と美化されて言っているあたりが、どうにも南部の白人中心の視点だという気がしてならない。
たしかに、南部の地主の白人たちにとっては、南北戦争が起る前の南部は夢のような世界だったのかもしれない。
あたかも貴族のような豪奢のその暮らしは、この映画でもとてもよく描かれていた。
しかし、それはあくまで、南部の一部の白人にとってだけだったはずであるが、どうもそのあたりの視点がこの映画には乏しすぎる気がする。
特に問題はなかった夢のような南部が、北部の連中に無理やり破壊された、とでも言いたいような描き方もしばしばなされている。
それは違うだろう、とリンカーンの苦労や黒人やアボリショニストたちの苦闘の歴史を考えると、どうしても思えてならない。
とはいえ、この映画の面白いところは、主人公のスカーレットも、その相手のバトラーも、没落していく南部を見ながら、さほどの執着や愛惜も持たず、逞しく生きていく姿勢なのだと思う。
スカーレットとバトラーには、それほど南部を美化するところもない。
それよりも、大混乱と大騒動の時代を、現実的に逞しく生きていくことに二人とも必死であるところが、多くのこの作品を見た人の共感を誘ったのだろう。
それと比べて、今回見ていて驚くのは、アシュレーのヘタレぶりである。
アシュレーは御存じのとおり、スカーレットの初恋の人であり、最後の方までは思いを寄せ続ける相手である。
私の幼い時に見たかすかな記憶では、アシュレーはもっと教養と品格のある立派な紳士という感じだった。
たしかに、アシュレーにはそうした面もあるのだが、今回見ていて気付くのは、「現実はつらい」とこぼし、夢や夢想や過ぎ去った南部への追憶に浸り、生活力も戦闘能力も乏しい、そのヘタレぶりである。
ここまでヘタレの夢想家とは思わなかった。
食っていけるかどうかの瀬戸際の時に、南部の「文明」が滅びていくことを歎く姿もだが、なんといっても絶句したのは、アシュレーが南部をなつかしんでさまざまな追憶を語る時に、「黒人たちの陽気な笑い声」という一節があったことである。
なにかアシュレーは全く別の南部を見ていたのか、あるいは現実があまりにも見えていなかったのではないだろうか。
南部の黒人奴隷制の過酷な暴力的な面は、おそらくアシュレーは全く見えていないか、あるいは意図的に見ていなかったのだろう。
この映画に出てくる黒人の描かれ方も、若干疑問が残った。
スカーレットの世話係のマミーや、使用人のビッグ・サムや、召使のプリシーは、それぞれ南北戦争の動乱にあっても、一貫してスカーレットのオハラ家に忠実である。
そこには、家族的な絆やつながりがある。
たしかに、そのような面も、当時はしばしばあったのだろう。
しかし、マミーが他の多くの使用人たちが去っていった後もオハラ家に留まり続けた背景には、他に行き場がないということや、あるいは没落した主家への愛情など、いろんな複雑な感情や背景があったはずで、それが描かれず、単にあるべき忠義な使用人としてのみ描かれているのはどうだろうか。
また、ビッグ・サムも、黒人でありながら南軍のための塹壕堀りに動員されたのは、きっと複雑な心境があったはずで、内心は北軍の到来を待ち望む気持ちがあったはずである。
にもかかわらず、のちにスカーレットが襲われているところを助けたのには、ビッグ・サムの人間としての深みや義侠心や優しさがあったはずだが、あまりにもさらっと描かれていて、さほどスカーレットも感謝しているようには思われないあたりは、どうにも首をかしげる。
黒人の登場人物の視点から『風と共に去りぬ』を語り直してみたら、もっと深みのある作品になるのではないかという気がした。
ただ、こうした理屈を抜きにして、スカーレットを演じるヴィヴィアン・リーは美しいし、レット・バトラーを演じるクラーク・ゲーブルはかっこいい。
どうにも、アシュレーを夢想家のヘタレだと思いつつも、自分は明らかにアシュレーに似た傾向があると思えてならないので、男はレット・バトラーぐらい自信に満ちて強引な方がいいのかもなぁと今回この映画を見直して思った。
やっぱり、理屈を抜きにすれば、傑作と思う。