メモ 無常や苦と慈悲の関係について 質疑応答

初期仏教の勉強会で、無常や苦を理解した上での慈悲が、大慈悲(マハー・メッター、マハー・カルナー)と仏教では呼ばれる、ということを聞いた。


質疑応答の時に、どうも無常や苦ということを聞くと、かえって自分は慈悲の心がしぼんでしまう気がする、長く付き合う相手ならば慈悲をそそごうという気にもなるが、いつ別れるかもわからない相手だったら慈悲をかけるのも無駄という気がしてくるのですが、ということを質問してみた。


すると、長老が答えてくださったのは、


慈悲は他人のために持つものではなく、自分のために持つものが慈悲です。
たしかに、慈悲の心を持った結果、そのことが相手に伝わって良い結果が生じればそれは素晴らしいことですが、相手が受けとる準備があるかどうかは相手次第で必ずしも自分にどうこうできるものではありません。
しかし、慈悲の心を持てば、それは必ず自分の心にとって穏やかな落ち着いた心を生じさせるという意味で、善いことです。
健康と同じで、健康であることは第一義的にはまず自分にとって善いことで、その結果人に対しても善い結果が生じたとしてもそれは二次的なことですね。
人生で一番何が大切なことかと言いますと、穏やかな落ち着いた心で生きること、清らかな落ち着いた心で生きることです。
そのことが、長い目で見ると、一番自分にとって力になります。
その穏やかな清らかな落ち着いた心を、慈悲を心の中で育てることによって生じさせることができます。
何かの壁にぶつかることは、誰にでも人生に起こりうることですが、その時も慈悲の力を高めると、現実の世界もラクになっていくということが、長い目で見れば私の経験からきっと言えると考えています。
無常の世界だからこそ、慈悲の心を持って落ち着いた心で生きていくことが力になります。
無常の世界から、何を受け取り、何をもらっていくか。
川から清らかな水をもらうように、この無常の世界を、善い力を高めることに使うのが、慈悲の心を高めて過ごしていくということです。
私たちが何のために生きているかというと、いずれこの身体は捨てていかなければなりませんが、心を成長させてからこの身体を捨てるために生れてきたと仏教の考え方からは言えます。



と、やや不正確なところもあるかもしれないけれど、おおむね上記の内容の御答えだった。
あらためて、間髪入れずに完璧な答えが返ってくるその智慧のすごさに深い感銘と感動を受けた。


ありがたい一日だった。