増支部経典 第六 弾指品

支部経典 第六 弾指品


一、 比丘衆よ、この心は極光浄なし、しかしてそれは客の随煩悩に雑染せられたり、無聞の異生は如実にこれを解せず、ゆえに無聞の異生は心を修せずと我は言う。
二、 比丘衆よ、この心は極光浄なり、しかしてそれは客の随煩悩より解脱せり、有聞の聖弟子は如実にこれを解す、ゆえに有聞の聖弟子は心を修すと我は言う。
三、 比丘衆よ、一弾指の頃なりとも、比丘が慈心を発すならば、比丘衆よ、この比丘は静慮すること空しからず、師の教誡を作し、教授を作し、国の施食を食う資格あるものと言わる、いかにいわんや慈心をしばしば発すにおいてをや。
四、 比丘衆よ、一弾指の頃なりとも、比丘が慈心を発すならば、比丘衆よ、この比丘は静慮すること空しからず、師の教誡を作し、教授を作し、国の施食を食う資格あるものと言わる、いかにいわんや慈心をしばしば修するにおいてをや。
五、 比丘衆よ、一弾指の頃なりとも、比丘が慈心を発すならば、比丘衆よ、この比丘は静慮すること空しからず、師の教誡を作し、教授を作し、国の施食を食う資格あるものと言わる、いかにいわんや慈心をしばしば修するにおいてをや。
六、 比丘衆よ、すべて不善の法は不善に属し、不善の分ともに意を先導とす、諸不善法の最初に意生じ、不善法これに随う。
七、 比丘衆よ、すべて善法は、善に属し善の分ともに意を先導とす、諸善法の中、最初に意生じ、善法これに随う。
八、 比丘衆よ、我はよく未生の不善法を生じ、また已生の善法を捨つるものはこの外に一法をも見ず、比丘衆よ、それはすなわち放逸なり。
比丘衆よ、放逸ならばすなわち未生の不善法は生じ、また已生の善法は捨てらる。
九、 比丘衆よ、我はよく未生の善法を生じ、また已生の不善法を捨つるものはこの外に一法をも見ず、それはすなわち不放逸なり。
比丘衆よ、不放逸ならばすなわち未生の善法は生じ、また已生の不善法は捨てらる。
十、 比丘衆よ、我はよく未生の不善法を生じ、また已生の善法を捨つるものはこの外に一法をも見ず、比丘衆よ、それはすなわち懈怠なり。
比丘衆よ、懈怠ならばすなわち未生の不善法は生じ、また已生の善法は捨てらる。