民主制を維持させるには? アリストテレスによれば

アリストテレスは、『政治学』の六巻の中で、民主制の維持の仕方について論じている。


同巻の中で、アリストテレスは、民主制の諸特徴を知ることは、人が欲するものを確立するためにも、現にある民主制を立て直すためにも、有益であるとして、民主制の諸特徴について考察している。
アリストテレスによれば、主要人口が農業・牧畜・商業・工業などの職種のどれが占めるかで、かなり民主制の特色も変わって来るということを述べている。


そのうえで、


「立法家や、この種の国制を設立しようと欲する者の務めは、それを確立することが唯一でも最大でもなく、むしろそれを保持することにかかっている。」


と述べ、創業より守成こそが大事であること、いかに現実にできあがっている国制を崩さずに保ち、うまく運営し、修繕していくことが大切かを力説している。


そして、国制の保全・崩壊の要因を正確に認識し、その認識にもとづき、国制を守る要素を最大限含む法律を制定しなければならないことを説いている。


具体的に挙げる事例や政策としては、もちろん、なにせ二千数百年経っているので、都市国家のポリスとは規模も時代も違う現代に直接的に役立つものが挙げられているとは限らないが、発想のありかたや思索のありかたは、非常に現代人に資することも多いと思う。


アリストテレスは、あまり頻繁に国民が政治参加を求めない方が理想的だとしている。
つまり、各人がきちんと農業等の仕事を持っていてそれなりに仕事で忙しく、あまり頻繁に民会に参加して政治に介入しない方が、しょっちゅう過剰な政治参加が行われる民主制より理想的だとしている。


しかし、公職選出権と執務審査権を国民が持っていれば、それによって為政者に一定の拘束をかけることができると説く。
全ての人が公職選出・執務審査・司法に関わり、重要な公職は財産資格を持つ者、あるいは能力を持つ者から選ばれること。
そうすれば、公職が最良の者にあり、かつ他の者が執務審査の権限を持つので、正しい支配が実現するという。


「拘束されること、そして、どんなことでも自分がよいと思うことをなしうるとはかぎらないことは有意義である。なぜなら、のぞむことはなんでもなすことができるということは、それぞれの人間のうちに巣くう悪を防ぐことができないからである。」


ということで、権力掣肘論や、三権分立に近い発想を、すでに古代において明晰に説き明かしているのは非常に興味深い。


また、国庫に余剰がなければ政治家は支出の削減に努め、国庫に余剰があれば、無産者に仕事を始める資金や土地購入のための資金を提供することを提起している。


しかし、あまり過剰なバラマキは決してしないように忠告している。


なぜならば、アリストテレスによれば、


「民衆はいちど金を受け取ると、またまた同額を要求する。」


存在であり、いわば「底の抜けた水壺」みたいなものだからという。


だが、それは、あくまで国庫に責任を持てばこそである。


アリストテレスは、


「真の民主制政治家の務めは、民衆が極度の貧困に陥らないように留意することである。貧困こそ民主制をわるくする原因だからである。」


と明言している。


周知のとおり、アリストテレスは、民主制には六政体でわりとネガティブな評価もしており、「国制」の逸脱形態だともしている。


しかし、このように民主制の維持の方法についてもかなり具体的に心を砕いて考えており、読みようによっては民主制の維持こそがその実践的意図だったという気もしてくる。


だが、一方で、僭主制の維持のためにもかなりすごい方策を書き込んでいるので、その実践的意図はなかなか明瞭にはわからない。
読みようによってはいろんな角度からいろんなものが浮かびあがる、すごい本だとあらためて思う。


上記のことから今に日本に照らしあわせて考えてみると、現下の日本で国民にとって必要な構えというのは、やはり直接的に政治に過剰に参加しようとしたり、あるべき民主主義について考えるよりは、しっかりと公職選出権と執務審査権を行使すること、つまり選挙の際にいかなる政治家を選ぶか、ということと、日ごろにその政治家の仕事内容がどのようなものかを正確に把握し評価することなのかもしれない。


また、政治家として必要なことは、単なるバラマキではなく、国庫に責任を持ったうえで、永い目で見た時に国民が貧困に陥らないように、国の豊かさと社会保障をバランスよく考え、貧困問題が生じないようなケアにこそ最大の努力を尽くすことが重要であり、それこそが民主制の生命線と言えるのかもしれない。


国民が政治家の仕事内容についての正確な認識やチェックを怠り、ただイメージや漠然とした幻想で支持するようになり、正しく選挙権を行使しないようになれば、


そして、全権委任的な、いわば僭主的な人物が大きな権力を握るようになれば、


「拘束されること」がはずれ、「自分がよいと思うことをなしうる」状態となった時に、「のぞむことはなんでもなすことができるということ」が、「それぞれの人間のうちに巣くう悪を防ぐことができない」状態となって、「民衆が極度の貧困に陥」って、「貧困こそ民主制をわるくする原因」という言葉通り、ますます最悪な民主制となるのかもしれない。


また、執務審査権や公職選出権ということでいえば、四年に一度、あるいは五年に一度、大統領選、あるいは公選制ということで首相を選んでしまって、あとはフリーハンドとなる公選制の首相よりは、場合によっては頻度を増すことができる議院内閣制の選挙の方が、国民にとってより大きな力があると言う言い方もできると思う。


これから先、安易に大統領制などに日本が変わっていって、民主制の維持や保全よりもその破壊に快哉が叫ばれ、民主主義といった場合に空疎なイデオロギーや過剰な政治参加が叫ばれるばかりで、権力掣肘や現実的な修繕・保全という観点が対抗勢力の側にも失われていった時に、この国はいったいどうなるのだろうという気はする。


僭主というものは、堕落した民主制から登場するということをアリストテレスは述べている。
我々は、今後、うまく民主制を保全・維持できるのだろうか、あるいは僭主制的要素が強まる時代を迎えていくのだろうか。