ペトラルカ風に ペトラルカへの手紙 その2

ペトラルカ風に ペトラルカへの手紙 その2


拝啓。
先日に引き続き、重ねて御手紙をさしあげます。
私の手紙をどのようにお思いになられたことでしょうか。
とるにたらないものと思われたことでしょうか、それとも珍奇なものだと思われた事でしょうか。
あるいは、率直な手紙だと、もしくは逆に率直さの欠けたものだと思われた事でしょうか。


人が率直に自分の思いを書き、表現するということは、実に難しいものです。
というのは、しばしば、本人自身が、自分がどのようなことを思い、考えているのか、実際にはよくわからないことがあるからです。
何かしら表現された時に、はじめて自分自身、明瞭に、自分がそれまで何を感じ、思っていたか、知るということがあります。


そして、人が、何かを表現しようとするには、何かしら別の人の表現に触発されてのことが多いと思われます。
いや、より正確に言えば、誰かの表現の形に触発されて、人ははじめて自分の思っていることや感じていることを表現しようと思うし、表現できるのかもしれません。


ですので、私たちはやはり、異なる他者の表現に触れるという意味で、古典を読み、古典に実際に心で触れる必要があるのです。
貴殿はヴェルギリウスキケロによって、そのことをなしました。
そして、私は、貴殿がそれによってなしとげた表現に、今度は触発されているわけです。


人が率直に自らの想いを表現することは、しかしながら、なんと難しいことでしょう。
その困難には、いくつかの理由があります。
ひとつは、今述べた、他者の表現に触発されるまでは、自分の感じていることや思っていることに気付かないし、表現しようとも思わないという問題があります。
ですが、それとは別の困難が多々あります。


気恥ずかしさという問題です。
あるいは、臆病という問題です。
自分の思っていることや感じていることなど、とるにたりないことではないか、仮にそれを表現したとして、人の失笑を受けるだけではないか。
そのような思いが、人に表現をためらわせ、表現を妨げるのです。


ですので、率直にみずからを表現する人に触発されるということの中には、このように自分は思いを表現してもいいのだと、またこのような勇気を持っていいのだと、そのように知ることも実は大きいと思われます。
つまり、表現への勇気こそ、表現者が後世に与える大きな贈り物であり、後世の者が先人から受け取り、真似るべきことなのです。


以上、私はいままで手紙を書いて、貴殿から学んだもの、今現に学んでいるもので、最も大きなことは、「勇気」だということに気づきました。


古代ギリシャやローマの英雄たちが戦場や政治において発揮したような勇気を、現代という時代においては、ほんのささいな表現においてすら、心がける必要があるのかもしれません。


それほど、大衆の無言の圧力というものは重く、各人はみずから、自分を表現する前に、人と何か違うことをしないように、自己規制というものをしているのです。


このような自己規制は、実は、単なる臆病であり、そして現実以上に世間というものを気にし過ぎる、己自身の中にある怠惰や過剰な心配の産物です。
とはいえ、簡単には払拭できないほど重く、各人の心を知らぬ間にがんじがらめにしているのです。


アレクサンドロス大王がゴルディオスの結び目を一刀両断したように、私たちはこの臆病やおもんぱかりによる自己規制のしがらみを断つことができるでしょうか。
それはおそらく、一刀両断には無理で、長い長い、勇気とそのつどの表現の積み重ねを要します。
つまり、一回の戦闘で決着がつく機動戦ではなく、長い長い陣地とりを要する陣地戦のかまえが必要となることでしょう。


しかし、勇気をもって表現を積み重ねれば、人間はこの陣地戦に勝利し、いかに腐敗した時代にあっても、徳を輝かし、己の天分や与えられたものを大いに発揮し、この世の生を神に似たものとして形づくることもできるはずです。


そのためには、日々の触発と、日々の勇気の糧が必要です。
貴殿の作品の数々は、まさに私にとってそれです。


今回はこの辺で。
Vale.