ヘミングウェイ 「日はまた昇る」


なんといえばいいのだろう。
一気に一日ぐらいで読んだのだけど、この感覚、よくわかるような気がした。


主人公たちは、ちょうど今の私と同い年。
あんまりはっきりそんなに多くは語らないのだけれど、若い時の第一次大戦の体験からか、方向性を失って、なんとなくぐだぐだな日々を送っている姿が小説では描かれる。


この小説を名作と言う人もいるみたいだけど、私はあんまり安易に名作と言う気にはなれない。
酒ばかり飲んでいる、しかしどっかで屈折や純情さを抱えている、若者とも必ずしも言えない三十代半ば近くになった人間が、確たる方向も手ごたえもつかめず、不完全燃焼感を抱きながら、時にぐだぐだと、時にあがいている、と言えばいいのだろうか。


ロスト・ジェネレーションなどというともっともらしいが、今の日本だったらモラトリアムだのニートだのと言われて散々に叩かれそうな人々である。
そういう意味では、どうしようもない連中と言えばどうしようもない連中なのだけれど、自分たち自身でどうしようもなさをよく自覚しているからこそ、好き勝手しているように見えて、なんというか、この小説の主人公たちが憎めない人々に感じられるのだろう。


さほど深い小説とも、テーマがはっきりしている小説とも、あんまり言えない気もする。
何かしら回復や更生があるわけでもない。
しかし、底流に流れる感覚は、なんだかよくわかる気がするという、不思議な小説である。


「人生がどんどん過ぎ去って、自分が本当に生きえないと思うと、たまらないんだ」
「人生を生き切っている人間なんていないよ、闘牛士でもなけりゃ」
(13頁)


「こんな気持ちになること、ないかね、人生がどんどん過ぎ去ってゆくのに、ちっともうまく使っていないという?もう人生の半分近くがすんじまったんだと、はっとしないかい」
(14頁)


「生きてゆくにつれて、何かは学んだはずだ。人生の意味がどうこうなんて、気にしない。ただ知りたいのは、どう生きるかということだ。あるいは、いかに生きるかがわかれば、意味のほうもわかってくるかも知れない。」
(199頁)


なんていうセリフは、この小説を読むまでもなく、たぶん私を含めて私の世代の多くの人の頭に日ごろ駆けめぐることだろうけど、読んでいるとあらためてそうだなあと思う。


この小説には、スペインのお祭りや、闘牛士、自然の中での釣りなどでてきて、それらが生き生きと描かれるのだけれど、どこかしら本当の生命の輝きや喜びを主人公たちが感じるわけではなく、それに憧れて、こうしたことを求めて触れながら、どこかしらそこに齟齬や厚い壁があるような感覚がして、それがなんというか、よくわかる気がする。


あぁ、たぶん、ヘミングウェイは、だいぶ昔の作家のはずなのだけど、今の日本の三十代には非常によくわかる感覚を共有していた人だったのだなぁと思う。


言葉で形容しがたいそういうものを、言葉でつくる一つの小説にこめているところが、この小説のすごいところなのかもしれない。


日はまた昇ったのか、そこに救いはあったのか、あるのか。
いまいち、一回読んだだけじゃ、よくつかめない気がする。


たぶん、何度か読んでもつかめないのかもしれない。


終らない日常や、また繰り返す日々の中で、なんとか折り合いをつけながら、屈折したものを抱えながらも、生きていく日々を重ねていたら、この小説がまたしばらく経って、違う角度で読める日も来るのだろうか。


面白い小説、というのは語弊があるのだけど、通常のそういう意味とは異なる意味で、なんというか、共感させられた小説ではあった。