現代語私訳 善導大師 「般舟讃」(念仏讃歌)  序分(はじめに) 第二節

善導大師の「般舟讃」をちょっとずつ、現代語訳していこうと思う。


といっても、解釈がかなり別れるところもあるだろうし、厳密に学術的な訳をするのでなく、気軽に、この素晴らしい一大仏教詩を、現代人にもわかりやすいように、試みに訳すぐらいのスタンスで臨みたいと思う。


「般舟讃」は、とりあえず「念仏讃歌」と訳してみた。




善導大師「般舟讃」(念仏讃歌)



「序分」(はじめに)



敬意をもって、すべての往生を願う御同行の方々に申し上げます。
大いに慚愧すべきです。
釈迦如来は本当に慈悲深い父母のようなものです。
さまざまな方便によって、私たちにこの上ない信心を起してくださいます。
また、さまざまな方便の教えを説き、その教えの入口が一つではありませんが、それはただ、私達、ものの見方が誤って逆さまになっている凡夫のためです。


もしも、仏の教えに依拠して修行するならば、さまざまな入口や通り道において仏に遇い、浄土に往生することができます。
もし、他の人が、善を実践していることを見たり聞いたりするのであれば、善を同じように行ってその人を助けなさい。
もし、他の人が、仏の教えを実践することを見たり聞いたりするのであれば、それを誉め讃えなさい。
もし、他の人が、仏の道を実践することを説いているのを聞いたならば、そのことを実践して従いなさい。
もし、他の人が悟ったと聞いたならば、その悟りを喜びなさい。


いかなる意味でこのようなことを言っているのかといえば、これらの人は皆同じく、さまざまな仏を師としており、仏の教えを母としており、それによって生まれ養われ、ともに同じく親愛の気持ちを持って、それ以外ではない存在だからです。
他の人々にとって縁のある教えや実践を軽視したりそしったり、自分にとって縁のある大切な教えだけを誉め讃えることがないようにすべきです。


つまり、そのようなことは、さまざまな仏の教えのまなこをお互いに破壊するようなものです。教えのまなこがすでに滅びてしまうならば、悟りへと向かう正しい道のりも歩いていくためのよすががなくなってしまいます。
浄土への入口に、どうやって入ることができるでしょうか。


悲しみ嘆いて、言います。
生れながら目が見えないように愚かで、業によって流され、業に従って深い穴に落ちていきます。
貪りや瞋恚の炎をそのままに放置すれば、自らを損ない、他人を損ない、長い間、無明の海に沈み、つかまるための浮き木に遇うきっかけも永い間ありません。
仏道を実践する者たちは、必ず、あらゆる凡夫も、悟った人も、それぞれの境涯において、いつも仏を讃え従う心を起こして、仏の教えに対して自分の判断や反発の心を起こすことがないようにすべきです。
どうしてかといえば、自分自身の身体と言葉と心による三つの業を守っていくためです。
不善の業が起こるならば、おそらくまたこれまでの人生と変わらず流転していくことでしょう。
もし、自分や他の人々の境涯の上において、身体と言葉と心の三つの業を守ることができ、清らかにすることができるならば、それこそが仏の国に生まれるための正しい原因となります。


質問します。
身体・言葉・心の三つの業が清浄になることが浄土に往生する正しい原因とのことですが、そうであれば、いったい何が清浄ということなのでしょうか。


答えます。
あらゆる不善のものごとを、自分や他人の身体・言葉・心において一切断ち切って行わないこと、それを清浄と呼びます。
また、自分や他人の、身体・言葉・心における善行為には、それに応じて、すばらしい随喜の心を起こします。
さまざまな仏や菩薩が随喜したように、自分もまたそのように随喜します。
この善根を回向して、浄土に往生します。
ですので、このことを、浄土に往生する正しい原因といいます。
また、浄土に往生したいと思うならば、必ず、自分にも他人にも、広く阿弥陀仏や聖衆や浄土のすばらしさを讃歎すべきです。
また、浄土に往生するための理由や、この娑婆世界を離脱するための一部始終のことを知るべきです。
さまざまな智慧ある人は、このことを知るべきです。


第二節


また、質問します。「般舟三昧楽」(念仏三昧の喜び)とは、どのような意味でしょうか?


答えます。
サンスクリット語では「般舟」(プラテュトパンナ)と謂います。
中国語に翻訳するならば、「常行道」(いつも行う道)といいます。
七日、あるいは九十日の間、間断なくその身に実践し、もっと言えば身体・言葉・心の三つの業において間断なく行うためにそう呼びます。
ですので、「般舟」と呼びます。
また、「三昧」(サマーディ)とは、これもまたインドの言葉であり、中国語に翻訳して「定」(集中)と呼びます。
「般舟」の説明において、身体・心・言葉の三つの業を間断なく行うということを言いましたが、そのように身体・心・身体の三つの業が間断ない状態に心が至り、感応道交するところに、仏の境地が目の前に現れます。
仏の境地が目の前に現れる時には、身体も心も内側から喜びが湧き上ります。
ですので、「楽」(喜び)というわけです。
また、「般舟三昧楽」のことを「立定見諸仏」(集中した状態でさまざまな仏と出会う)とも呼びます。
よくよく理解すべきです。