伊藤野枝は、福岡の今宿という所の出身。
にもかかわらず、今宿には、全く、伊藤野枝についての碑文も顕彰碑も、生まれた場所を示す看板も何もない。
要するに、何の史跡めぐりの手がかりもない。
そのことに、先日、ちょっとその地をめぐってみようと思って、あらためて愕然とさせられた。
このあたりが伊藤野枝が生まれた場所だったらしい、というあたりは、ネットの検索で交番や、以前はバスセンターで今はコンビニのミニストップがあるあたりがあって、そのあたりはわかったのだけれど、どうもそれ以上は手がかりがなく、さっぱり尋ねようがなかった。
もちろん、もっと詳しくいろいろ書籍を調べて、あらかじめ調べていけば生まれた場所も正確に同定できるのだろうけれど、簡単な看板か案内の表示ぐらいしとけばいいのにと思う。
今は、かなりほとんどの歴史上のゆかりの場所等々は、石碑ができてたり、案内の看板が立っていたりする。
福岡市内も、非常にマイナーな人物ゆかりの場所やかつて何かがあった場所など、相当にマニアックなものまで案内の看板や碑文が立っていたりするのだが、
伊藤野枝についてのこの冷淡さは何なのだろう。。
やっぱり、なんというか、戦前においては大杉栄や伊藤野枝などは、お上にたてついた国賊ということで、故郷でも抹殺されるべき人物だったのだろうか。
もういいかげんにこれだけ時が経つのだから、左右どちらにも偏りなく、おおらかに、過去の歴史については大事にして、外から訪ねてくる人にわかりやすく案内の看板や碑文を建てておくべきなのじゃなかろうかと思う。
福岡だと、玄洋社ゆかりの場所や人物などは、相当マニアックなところまで研究が進んでいるし、称揚されているような気がする。
それと比べて、なんともはや、伊藤野枝などについては、最近西日本新聞に評伝がずっと連載されていたので、研究や記憶はきちんとされている部分もあるのだろうけれど、なんともこの地元の冷淡さはあらためて驚かされるところがある。
そういえば、堺利彦も、伊藤野枝に比べれば記念館も碑文もあるようで、はるかにその点ではマシかもしれないが、あんまり福岡県人だからといって堺を知っている人はほとんどいない気がするし、玄洋社関連と比べてほとんど研究する人もいない気がする。
いいかげん、時が経てば、右も左も関係なく、郷土の大事な記憶として、どちらも語り継げばいいんじゃなかろうか。
戦前においては、国権主義者も、社会主義者も、どちらもそれぞれに世のため人のためを思って各自一生懸命に働いた人々と思う。
その熱や思いを、後世の人は、どちらの側からも偏りなく耳を傾け語り継いでいくことが、より良い現在や未来を築き育むためにも大事なことなんじゃなかろうかと思う。
というわけで、そのうち、伊藤野枝の生まれた場所等々についても、もっと詳しい案内の看板や碑文が建って欲しいと願われてならない。
だが、たぶん、なかなか実現しないんだろうなぁ。。