立花隆 「田中真紀子研究」

「田中真紀子」研究

「田中真紀子」研究

とても面白かった。

田中真紀子の研究というよりは、田中角栄についての研究でもあり、角栄的政治のありかたや、角栄をめぐる佐藤昭や田中真紀子の確執などの人間ドラマもわかりやすく描かれていて、読んでいてへ〜っ!と思わされた。

この本は八年前に書かれたものだけれど、著者の立花隆は、日本の現在抱えている問題は「角栄の遺伝子」の問題、つまり角栄的な利権政治やばらまき政治の残したものの問題だと指摘している。
本当にそのとおりだと思ったし、今もその問題は十分には解決されていないと思えた。

田中角栄の築きあげた、壮大な利権づくりと金づくりと金のばらまきの仕組みは、読んでいてむちゃくちゃと思う反面、ある種のすごさを感じさせられた。
「マネークラシー」とも呼ばれる、金権デモクラシーは、たしかにあの時代においては日本の繁栄と密接に連動したものだったかもしれないし、学歴もない貧しい庶民からたたき上げでのしあがった田中角栄は、あのようにしなければ首相になれない面もあったのだろう。

とはいえ、田中角栄の土建ばら撒き政治こそ、今の日本の財政難の原因の大きな一つであり、
田中角栄の推進した国土計画が地価の上昇を招き、土地に対する投資や土地担保の融資の加熱を招き、バブル経済とその崩壊、膨大な不良債権を生んだことを考えれば、その罪悪はやはりとてつもなく大きい。
税金逃れの巧みな仕組みや、錬金術のような土地売買による資産運用についても、読んでいてただただ唖然とさせられた。

また、田中角栄ののこした問題は建設・土建の分野だけでなく、日米繊維交渉に見られた国内産業への補償金・補助金ばら撒きというのちのち大きな禍根をのこしたスタイルの問題もあり、この補助金ばら撒きこそのちの日本の農業や低生産性部門の甘やかしや非合理を招いたことを考えれば、今日の日本の問題のほとんどの要因は、田中角栄がのこした「負の遺産」と言うこともできるのかもしれない。

小泉改革は、その全てを評価すべきかは別として、角栄的政治や角栄負の遺産と対決し、土建関連の予算を削り、不良債権処理を進めたことは、必要な部分もあったと言えるのかもしれない。

ただ、田中角栄は、これほど負の遺産を撒き散らし、税金ドロボーと言ってもいいような道理を曲げた税金の乱費をしながらも、どこからしら憎めない、愛すべき部分もあるような気がするのはなぜなのだろう。
著者の立花隆も、きちんと角栄的政治の問題やその負の遺産を指摘しつつも、単に冷たく切り捨てることのできない、人間としての角栄への魅力や良さをアンビバレントに語っているような気もする。

とてつもない負の遺産ものこしたけれど、ともかく一生懸命に働き、多くの人に金をばら撒いて繁栄をもたらした部分もあった、どうしようもない談合政治や利権政治だけれど、それがあの時代の日本の姿でもあった、そういったところだろうか。

社会の利害関係のネットワークを的確に見抜き、互酬関係を積極的につくる、そのことについての角栄の能力はずば抜けていたし、その中には利権政治としてきちんと法の裁きを受けるべき部分もあったのと同時に、政治の本質としての部分もあったということなのかもしれない。

毎日、二時や三時に起きて、官僚のあげてくる膨大なペーパーをすべて目を通し、「鬼気迫る勉強」と知っている人々から言われた田中角栄は、たしかにすごい努力家で、よく働く政治家でもあったのだろう。

角栄負の遺産を乗り越え、角栄的政治と決別することがたしかに今の日本には必要だが、なつかしい親父さんみたいなところが、歴史の上での田中角栄という人物にはあるのかもしれない。

そんなことを、この本を読んでいて考えさせられた。

この本には、田中真紀子の想像を絶する非常識ぶりと同時に、角栄的政治と決別し、乗り越えようとする真紀子の良い部分にも触れ、大きく脱皮すれば良い政治家になりうる、と書いて結ばれていたけれど、あれから八年、田中真紀子は、立花隆が期待したような政治家に脱皮したのだろうか。

あるいは、日本の政治自体が、小泉改革などを経ながらも、本当にどこまで角栄的政治から脱皮することができたのだろうか。

課題のいくばくかは、多少は良く前進できたのかもしれないが、まだまだこれからのことも多いのかもしれない。