瀧井一博 「伊藤博文 知の政治家」

伊藤博文―知の政治家 (中公新書)

伊藤博文―知の政治家 (中公新書)


今もって伊藤博文といえば軽佻浮薄で思想性に乏しい人物という通俗的イメージを持っている人は多い。
本書は、そうした従来の通俗的イメージを大きく覆す。

本書によれば、伊藤博文トクヴィルの本を愛読し、流暢な英語を操り、抜群の集中力でアメリカ・イギリス・ドイツの国制やその歴史を理解・把握。

国家は知を基盤に成り立っている。
制度は知によって成り立ち、知によって動かされる。
そうした認識を持っていた「知の政治家」だったとされる。

伊藤は当時において、単に憲法の条文だけをつくればいいというものではなく、立憲制度をつくりあげた上で、実際にその器に盛りこむ国民政治、つまりデモクラシーの運営と内実こそが大事だとはっきりと洞察した、類稀なる思想家であり、政治家であった。

ドイツに赴き、憲法を勉強したというのも、単に憲法を学ぶというより、国家の全体的構造を学び、議会と行政の組み合わせの実際を会得するためだったという。

そうして、憲法を制定し、立憲制度をつくりあげたうえで、そこに盛り込む国民政治の実現のために、伊藤は着々とさまざまな手を打っていった。
政友会を結成したのもそのためで、伊藤はシンクタンクとしての政党を構想し、政友会もシンクンタク・人材のプールと養成のためのものとして構想していた。

伊藤は、本当の愛国心とは、国を豊かにしようとするプラクティカルな意思だと考え、空理空論の政談を科学的な認識にもとづいた政策的思考によって克服することを目指し、教育や政党の充実に努めたという。

つまり、伊藤は、文明国というのは、ハードとしての立憲制度とソフトとしての国民政治を兼ね備えたものであり、そのために国民の知力の向上がたえずはかられ、知的に開花された国民によって運営されるものだと構想していたらしい。

あくまで現実に即しながら、拙速に走ることなく、長期的なビジョンをゆっくり時期を見ながら着実に現実化していく伊藤博文の「漸進主義」も本書ではよく描かれていた。

さらに、本書では伊藤博文の帝室制度調査局を通じた「公式令」の制定が、台頭する軍部を抑えるシビリアン・コントロールにあったことをさまざまな資料を駆使してさらに詳しく明らかにしており、とても興味深かった。

伊藤の韓国統監への赴任は、二つの目的を兼ね備えており、ひとつは韓国の近代化・文明化であり、もうひとつは上記の日本国内での軍部のコントロールと連動して、まず韓国でシビリアン・コントロールを確立し、それをモデルに日本国内にも文民が軍部を統制する仕組みをつくるためのものであったという。

伊藤の韓国の文明制度導入への試みは、韓国のナショナリズムの抵抗にあいなかなか順調に運ばず、当初併合に反対していた伊藤は、最後の方は併合もやむなしと考えるようになったようである。
しかしながら、本書では、伊藤は併合したとしても、韓国にきちんと韓国人による選挙で選ばれた議会と韓国人の内閣を設立し、かなり高度な自治を付与することを構想しており、そうした自治のもとで文明化が進めばいずれ独立させることも視野に入れていたであろうことを記している。

伊藤は、韓国の潜在的な能力や文化程度に対しては高い評価と尊敬を持っていたらしい。

「君朝鮮人はえらいよ、この国の歴史を見ても、その進歩したことは、日本より遥か以上であった時代もある。この民族にしてこれしきの国をみずから経営出来ない理由はない。才能においては決してお互いに劣ることはないのだ。然るに今日の有様になったのは、人民が悪いのじゃなくて、政治が悪かったのだ。国さへ治まれば、人民は量においても質に於いても不足はない。」

新渡戸稲造全集5巻 550〜552頁)

新渡戸稲造に述べたそうである。

さらに、伊藤は日本の軍部が満州に勢力を伸ばそうとするのに断固反対で、そのために自ら韓国に赴き、シビリアン・コントロールを確立しようとしていたそうである。

そうした本書の記述を読んでいると、伊藤が暗殺されたことはあまりにも惜しく、日本、および東アジア全体にとって大きな損失だったと思われる。

本書のあとがきで述べられているように、伊藤は当時も後世にもあまりにも誤解の多い、孤高の政治家・思想家だったのかもしれない。

伊藤之雄氏の著作が「剛凌強直」の側面を描き出しているとすれば、本書は伊藤博文の「細案精思」の側面、緻密な制度知を描き出していると言える。

伊藤博文について知りたい人、および今日の日本や東アジアのあり方を考える人にとっても、ぜひ一読をお勧めしたい名著と思う。