大乗起信論

大乗起信論 (岩波文庫)

大乗起信論 (岩波文庫)


唯識においては真如が無明と没交渉だが、それと異なって、起信論における真如は、無明と相互に薫習・影響しあうことになっているところが興味深かった。

要するに、人間は、真如の方に向かって心が染め上げられていくか(浄法薫習)、もしくはより無明に向かって心が染まっていくか(染法薫習)の、どちらかというわけで、極めて実存主義的な思考が打ち出されていると言えるとも思う。

真如とは、要するに永遠のいのちというか、真理というか、救いのことなんだろうけど、そっちに向かうにはどうすればいいかというと、十善戒や六波羅蜜などが説いてあって、それが難しい人は念仏しなさい、という結論になってる。

そういえば、法然上人も選択本願念仏集大乗起信論にさらっと触れてたけれど、念仏というのも、簡単なことのように見えて、宝性論や起信論の、かなり精緻な理論に裏づけされているのだろう。
起信論のアラヤ識は、よくわかるようなわからないような理論だけれど、要するに、この生滅する現実の人間の迷いの心は、実はどかっと真如の上にある心で、真如が背後にあるし、真如がいつも救おうとして、介入してくるし、そっちに向かっていけば真如に心が染まっていく、という話なのだろうかと思う。

他にも、

平等・無差別の真如の方を憶念して、日ごろの妄念の状態を離れてみることの大切さ、

直心・深心・大悲心の三心(観経の至誠心・深心・発願心と比較すると面白い)ということ、

止(=真如三昧(念仏))と観ということなど、

いろんな興味深いことが散りばめられている。

起信論は、チベット仏教ではぜんぜん読まれないらしいけれど、中国や日本の仏教史への影響はとても大きいらしい。
特に華厳や浄土系には絶大な影響を与えているらしい。
一度は読んでみるといい本なのかもしれない。