「なつかしさ」という感情について

ふと、「なつかしさ」という感情はいったい何なのか、考えてみた。


時折、人は何かに対してなつかしい気持ちになることがあると思う。
この「なつかしさ」とは一体何なのだろう。


たぶん、二つの要素が混じっているのではないかと思う。


1、無常に逆らう無知や執着
2、過去の何か良い感情や心などを思い出してあらためて共感する気持ち


1は、基本的に愚かなものであり、人の人生は過ぎ去って変化していくものなのに、すでに過ぎ去ったものや変化したものを止めて執着したいと思う気持ちなのだろう。
これはおそらく、往々にして良い結果を生まないし、あまり生産的なものではないのかもしれない。


2は、何か忘れていた、過去の良いものや善い心を思い出して、あらためて育むきっかけになるのかもしれない。
これはたぶん、しばしば良い結果を生じさせるきっかけになるかもしれない。


人の「なつかしい」という気持ちは、おそらくこの1と2がしばしば混ざっているのではなかろうか。


仏教用語的に言えば、無常を認識できない無明と、過去の善根功徳への随喜が、しばしば渾然一体となって、あんまり本人にも区別できず、整理できていない場合があるような気がする。


したがって、大事なことは、過去はすでに過ぎ去ったもので、そこから何か良い材料を今使うために思い出す以外は、基本的に過去に拘泥することは役に立たないし、無駄なことだとはっきり認識することなのだろう。


しかし、一方で、過去の中の何がしか良いものや善い心は、今あらためて思い出して共感する時に、今を照らす良いものとしてよみがえり、新たにさらに育まれる良いきっかけになることもあるということなのだろうと思う。


たとえば、過去にすでに終わった恋愛について、執着したり怒りや未練を心に起すことは、何も良いものを生まない愚かなことだろう。
しかし、その時に、相手を心から思いやったり、もしくは過去の一時期に、相手が心から自分を思いやってくれたことを思い出すことは、場合によっては、慈しみの心を育て取り戻すことに役立つかもしれない。


過去をなつかしむことは、無知や執着からのことであれば非生産的で愚かなことだが、無常をよくよく観察した上で、なおかつ慈悲喜捨などの善心をその中から取り出すことができるならば、場合によっては意味がある場合もあるのかもしれない。