現代語私訳『福翁百話』 第八十五章 「種族としての人類の改良」
人間の世界の道理でしょうか、感情でしょうか、何千年何万年の間、先祖代々の遺伝の中に存在し、それぞれの人の骨身に徹している習慣は、その利害がどうであるかにかかわらず、簡単には変えることができないものです。
たとえ変えることを言ったとしても、ただ世間を驚かすだけで、いわゆる空理空論や無駄話に過ぎません。
しかし、空理空論や無駄話も、場合によっては人の思想の幅を広くするために役に立たないわけではありません。
「天にはしごをかけて登ることはできない」(天の階して昇るべからざるが如し(論語))という言葉は、絶対にかなわないという意味です。
しかし、火星と地球の間で通信を開いてお互いに話そうということや、月の世界の様子を知るための方法があるといって、その工夫に関して計画やアイデアを立てる人がいれば、たとえ現実には実行しなくても、ただその主張を聞くだけで、人間には絶対にかなわないことはないという思いを起させるには十分でしょう。
つまり、思いや考えを広くし、勇気を強くするための手段であり、その思いや考えや勇気は、あらゆる物事に役に立つことでしょう。
ですので、今ここに、ひとつの無駄話を語ろうかと思います。
最近は、家畜の養育方法がだんだんと進歩してきており、特にその体格や性質を改良することがとても簡単になっています。
その要点は、ただ血統を選ぶことにあります。
たとえば、良い牛や馬を得たら、その良い牛や馬を父や母として一切他の良くない牛や馬を近づけず、良い父や母が良い子を産めば、その子どもの中からさらに良い子牛や子馬を選んで父や母として、常に飼育の方法に注意して、四代目や五代目となっていく間には、その成果は本当に驚くべきものがあります。
それだけでなく、もしその馬が体格や体つきはすべて完全だけれども、ただ首の形に欠点があるという場合は、雌か雄のどちらかを選んで二代目三代目を経るうちに次第に首の形も良くすることなどのことは、自由自在で、ちょうど木や石を削って細工を施すのと同じです。
西洋諸国では、牛や馬、羊や豚、鶏や犬などの種類を飼育して、毎年毎年改良を加え、百年前と比べるとほとんど別の種族のような様子があるのは、ただ血統を大事にして乱さないようにするという手段だけによっているとのことです。
さて、人間の体格や性質も、他の動物と比べてもそもそも、上下や立派さの違い、完全不完全の違いがあります。
これは、先祖代々の遺伝による決まりごとであり、少しも遺伝と誤差があることはないことでしょう。
人間も家畜もまさに同じであり、ひ弱な父母にはひ弱な子どもが、逞しい子には逞しい父母があります。
病気にかかりやすい体質も遺伝しますし、能力も遺伝しますし、身体の強さや弱さ、精神の賢さや愚かさ、すべて父母や祖先からの遺伝によって伝わってきたものというだけでなく、智恵や能力のさまざまな種類や傾向もまた遺伝によって決まっていないことはなく、学問や武道や芸術などについて常に先祖によく似ている様子は、猟犬の子どもは猟犬が産まれ、番犬には番犬が産まれ、その毛色まで親に似るようなものです。
このことが、はたして間違いないならば、人間の結婚方法も、家畜を改良する方法に沿って、良い父母を選択して良い子どもを生まれさせるという新しい工夫があってしかるべきです。
そのおおまかなことを述べるならば、まず第一に、強い者と弱い者、賢い者と愚かな者とが混ざって結婚することがないようにし、その体質が弱くて心が愚かな人は結婚しないようにさせるかあるいは避妊させて子孫の繁殖を防ぎ、善良な人の子孫の中でも特に善い人を選抜して結婚させ、その繁殖が円滑になるようにさせます。
また、そのようにしたいと思うならば、一人の男性に数人の女性はもちろん、あるいは一人の女性に数人の男性が結婚するのも良いことでしょう。
要するに、ただ生れてくる子どもの数が多く、その心身が良いことを求めるだけであり、改良に改良を重ね、一代、二代と次第に進化していく時は、牛や馬や鶏や犬の場合は寿命が短くてその効果を見ることが速いのに対し、人類の改良は割とゆっくりではあるでしょうけれども、大体二、三百年を経過する間には、すばらしい成果が出ることは疑いありません。
人間をつくりだす方法は、ただその種(俗に父を種と言い、母を腹と言うのは荒唐無稽な誤った説です。本当は、父も母も両方とも生れてくる子どもの種であり、もしその卵が存在する場所を求めるならばかえって母親の身体の中にこそ観察できるものでしょう。)を選び、養い育てることに配慮するだけのことであり、そうすれば思い通りにならないことはありません。
この方法で道徳を向上させたいと思うならば、世界中の人を皆、釈迦や孔子、キリストのようにさせることができることでしょう。
物理学者を望むのであれば、何千万人というニュートンを生じ、軍人が必要というならば、いたるところに加藤清正、本田忠勝を見ることができることでしょう。
男女の体格を大きくするのも小さくするのも、美しくするのも醜くするのも、色白にするのも色黒にするのも、鼻を高くするのも低くするのも、自由自在であり、世の中の風潮が好男子や美女を求めるならば、在原業平や小野小町は普通の男女になって別に珍しくなくなります。
もしくは、在原業平や小野小町に学問や文芸ばかり弱々しいという欠点があるならば、宮本武蔵や巴御前の一部分を合わせることもたやすいことです。
源頼朝の頭が大きすぎると言うのであれば、その頭だけ小さくすればいいことでしょう。
源為朝の肘が長すぎると言うのであれば、少し短くして適度な長さにすればいいのです。
要するに、人間の改良の成果は、とりもなおさず今の馬車において痩せ馬を改良してアラビア馬に変化させることと同じで、国民全般の賢さや強さや美しさを前後比較して、その違いが天と地ほどとなり、全く別の状態となり、そうなるためにわずか二、三百年しかかからないというわけです。
本当に簡単な事業であり、もしある一国においてこの事業を実行する者がいるならば、その国力はたちまち世界中を圧倒し、もしくは心服させて、地球はその国の政府のもとに帰することでしょう。
随分愉快なことでしょうけれど、これこそ、つまり、言うことはできても決して実行されないことです。
以上の無駄話は、そもそも無駄なことであり、聴く必要ないことのようですが、茶飲み話のついでにでも一つの笑い話として出すならば、自然と聴いている人の心を広くし、その日ごろの窮屈な心をたまたま一転する効果はあることでしょう。
その昔、元の初代皇帝のクビライが中国本土を征服した時、中国の人々の性質はどうしようもなく役に立たず、繁殖させるのは不利だと考え、仮にも南方の漢民族に属する者は老若男女を問わず何千万人何億人という数を一気に皆殺しにして、それに代えて北方の人々を連れてこようという考えを決めた時、耶律楚材が諫言し、止められたと言います。
また、つい先年、日本において北海道の開拓が始まったころ、アメリカ人のある人物を招いてさまざまな事業を行う中に、馬を改良するという課題がありました。
その人物は、内地からどれだけ良い品種の馬を移してきても、北海道産の悪い品種の馬と交われば改良の目的は到底達することができないので、まずは北海道内の馬を見つけ次第殺すことが重要だと主張したそうです。
結局、このことも実行されず、両方とも実行されなかったことで、また実行されるべきでもない事柄ですが、それが実行されるかどうかは別として、その発案者は気宇壮大とは言えます。
また、事柄は異なりますが、先日、アメリカから発行されている新聞を見ていたら、三人の学者の友人たちがあらかじめ打ち合わせて、それぞれの妻が妊娠する時から妊娠している間はもちろんのこと、出産後、生まれてきた子どもの養育方法について格別に注意して、その子どもたちにそれぞれ絵画、音楽、数学などの才能を造りだし、最初に決めた目的を達成したという実話がのっていました。
この学者のような事例は、その心が窮屈でなく、思想の幅が広く、自分が後世の模範になるような大きな物事に挑戦し、しかもその事柄は少しも凡庸で通俗的な社会の感情を損なわず、文明進歩の材料を豊かにしたものだと言えることでしょう。