現代語私訳『福翁百話』 第八十四章 「改革すべきものはたくさんあります」
物質的な事柄に関する改革について、ある学者はこんな説を説いています。
「今までの世界中の家屋を観察すると、二階や三階の家においては、台所は必ず一番下の階に設けてあります。
ゆえに、料理をつくる時のにおいが上に昇り、二階の人は自然とそのにおいを嗅いだり、その熱気に蒸されて不愉快を感じるだけでなく、風にのって近所の人までその不愉快を一緒に感じることこそ、愚かなことでしょう。
自分の家をつくる際は、何階建ての家であろうと、台所を一番上の階に置き、オーブンの煙はもちろん、料理の際のあらゆるにおいや蒸気は家の上の方で済ませて、出来上がった料理を下の階に降ろすように改めるべきです。
そのようにすれば、その家の人は食べる前には料理の形も見ず、音も聞かず、においも嗅がないため、ちょうど突然料理を口にするようなものであるために、一層のおいしさを感じることでしょう。
このこともまた一つの利益です。」
などなど。
この説は、決して荒唐無稽な話ではありません。
機械の使い勝手が次第に便利になっていくならば、台所を家の上の方に置いたからといって、ただ水や炭やその他のものを上に送るだけで、何の造作もなく、またその水や塵やゴミの始末もとても簡単になることでしょう。
また、ここにもう一つの案があります。
都会に住んでいる人が建て込んだ家の中にいて、太陽の光が乏しく、不潔な空気を呼吸するのは衛生上において害があると言えますが、今の時代においても、多少のお金を使って科学を応用すれば、この害を避けることはそんなに難しいことではありません。
まず、日光を取ろうとするならば、必ずしも家の側面からそうする必要はなく、屋根の頂上、あるいは側面であっても日光がよく当たる場所に、凹凸のある形のガラスの大きな装置を設置して、家の外の大空の日光をとらえて、転々と反射させてこれを各室に引くこと、ちょうど水道管で水を引いてくるのと同じようにして、日光を集め、日光を分散させて、明かりを取るべきです。
それだけでなく、今の電気の灯りの用法をちょっと巧みにすれば、全く日光に依存しなくなることも可能でしょう。
また、空気の汚れを防ぐには、家を密閉してむやみに外の空気を通させず、外壁の適切な場所に大小の穴をあけて、この穴に綿を入れておいて、外の空気が入る場合は必ずこの穴から綿を通過して入ってくる装置をつくれば、どのような不潔な空気も綿に濾過されてきれいな清浄な空気になることでしょう。
このようにすれば、室内に空気が不足する心配があるため、電気で動く換気扇や、あるいは蒸気による換気扇を利用すれば、空気の通りの加減を自由自在にコントロールできます。
暑くて部屋の中に熱がこもる時は氷を室内で溶かし、冬は石炭あるいは蒸気によって温度を調節するべきです。
以上の仕掛けをすれば、都会の真っ只中、不潔な塵が積もる土地に家を建てて生活しても、鮮やかな日光を浴び、清潔な空気を呼吸し、夏は暑くなく、冬は寒くなく、科学上の衛生は大変安心で、のどかに歳月を送っていけることでしょう。
また、あるいは、さらに一歩を進めて、何千坪あるいは何万坪とある邸宅を、周囲や上部を鉄骨やガラスによって密閉し、上記のような装置を施す時は、必ずしも窮屈な室内に縮こまる必要はなく、広い邸宅の内部はなんの毒も害もない小さな宇宙であり、散歩や運動、馬に乗ったり、車を走らせたり、より一層の楽しみがあることでしょう。
また、もうひとつの案があります。
もともと、西洋の煉瓦や石造建築の家は、大昔の穴居の住宅が進化したものです。
日本の木造家屋は、野蛮人が住む木切れや草の葉っぱや樹木の皮からつくった小屋から始まっているに違いありません。
今や大いにその様子は変化していますが、何千年何万年という遺伝や習慣は簡単に脱け出すことができないものです。
今現在でも、建築の材料としては、穴居の石、小屋の木を使って、他のものを思わないことこそ不思議なことでしょう。
ですので、考えるに、最近は製鉄事業が大いに発達したのを良い機会として、家屋の建築より内部の造作に至るまで、鋼鉄を用い、装飾には金銀のメッキや象嵌を施すなどの趣向にすれば、火災や震災の予防になることはもちろん、建物の重さもだいぶ減らすことができ、工事の地ならしに無駄な労力や費用を使うことを省くことができることでしょう。
鋼鉄の用途はただ家屋にあるだけではありません。
馬車をはじめとし、さまざまな種類の車にも適していることでしょう。
今でも、木製の手桶の代わりとしてブリキの桶を使い、その簡単さや便利さを喜ぶ人も多くいます。
場合によっては、鉄は温度をすぐに伝える物質なので、家や車に使った場合、暑い時や寒い時に困るなどという説もあるでしょうけれども、石綿などのような温度をさえぎる物質を利用すれば簡単に防げることです。
ボイラーの塗装方法を見ても理解できることでしょう。
また、もう一つの考え方として、文明が進歩すれば、人々はしきりに都会に集まり、そのために土地の値段が高騰し、土地の値段が高騰すれば家を三階建て、五階建てにして、ついには十階から二十階建てにもおよび、人口は都市の周辺に膨張するよりも都市の上の方に上昇して、上に重なる都会となるのは自然な勢いであり、西洋諸国にすでにその現実の姿を見ることができます。
そして、往来の道路は二階建てのはしごのようなものになり、また水路が堀割のようです。
五十坪の二階の座敷に90センチの階段をつくったり、数キロ平米の水たまりを水路に導こうとして溝を一筋掘っても、実際には役に立ちにくいものです。
ですので、今の都市の道路は、昔の人口も少なく、平屋か二階三階の家に住んでいた人数にこそふさわしかったものであるのに、今は人々が上に七階八階の住居をつくって、道路の幅は依然として昔のままだと言います。
その状況は、ちょうど九十センチの階段のような、一筋の溝のようなものです。
そもそも、十分に役に立つはずがないので、住んでいる人が七階八階になってくると、それと同時に、その分、道路を行き来する速さを七倍、八倍にするか、道の幅を七倍、八倍にする必要があるのは明らかです。
しかし、両方とも差支えが多くて、実行するのが難しいために、新しい案として、家が十階、二十階となるのに対して、二階、三階の高さに高架道路を建設するという方法があります。
現在、実際につくられている高架鉄道のようなものはその一つですが、まだ十分目的を達成しているわけではありません。
近隣との往来に汽車が不便であるだけでなく、徒歩、馬車、乗馬、自転車などのために、ぜひとも高架道路をつくって、現在の地面にある道路のようにして、人々が暮らしている住居の層と、道路の層と、お互いに平均させて、はじめて実際の役に立ち、はじめて都市が反映し、高層都市が現実化することを見ることが出来るでしょう。
いつか実現することは今日始まるわけで、こうした種類の事業を始めていくためには、今から計画していっても無駄なことではありません。