そういえば、だいぶ昔に読んだ臨死体験について様々な事例を集めた本の中に、こんなことが書いてあった。
人は死ぬ時に、大きな光のようなものから、以下のような質問を受けるそうである。
・「あなたには死ぬ覚悟ができていますか?」
・「あなたには死に対する心の用意がありますか?」
・「あなたは一生のうちに、わたしに見せられるようなことを何かやりましたか?」
・「あなたは生きていた時に、何か満足できるようなことをやりましたか?」
うーん、どうなんだろう。
今、自分に問い直すと、最初の二つの質問は、できているような気もするような、できていないような気もするような。
たぶん、何か突発的なことで今死んだら、残念な気もするだろうけれど、運命だから仕方ないというような気もする。
早く死にたいとは思わないが、かといって無理に生きていたいと思うかどうかは、いまのところ死を間近にしていないせいか、よくわからない。
たぶん、それなりに良い人生だったという一応の満足感はある気がする。
でも、できれば、もっと満足を得た上で死にたい気もする。
三番目の質問、その光のようなものか、あるいは神仏のような存在なのか、ともかく、阿弥陀様に見せられるような何かをしたかというと、これまたどうだろう。
お愧ずかしい一生でした、と思うのが念仏者のありようなのかもしれないし、そうなような気もする。
一方で、まあまあ自分としては頑張った気もする。
だが、まだ、成し遂げていないことや達成していないことも多く、これからもっと達成し、成し遂げて、あの世で仏菩薩にお見せできるようにしておきたいような気もする。
四番目の質問、どうなんだろう。
満足したような気もするし、まだまだもっと達成して満足してからにすべきこともあるような気がするし。
格別不満というわけでもないが、格別もうこれでいいと満足しているわけでもない。
と、考えてみると、なんだか曖昧だが、要は、こうした問いを意識しながら生きると、いいのかもしれないなぁ。
そういえば、だいぶ前に読んだ、ダライラマと大谷光真御門主の対談で、ダライラマが、あの世で阿弥陀如来に会った時に胸を張ってこういう生き方をしてきたと報告できるように生きるのが大事ではないか、ということをおっしゃられていて、とても感銘を受けた記憶がある。
この四つの問いと重ねることの気がする。
漫然と生きるのではなく、時折はこうした問いを意識しながら生きるように心がけよう。