現代語私訳『福翁百話』 第二十六章 「子どもに対して多くを求めてはいけません」

現代語私訳『福翁百話』 第二十六章 「子どもに対して多くを求めてはいけません」


子どもとして、親孝行すべきことのはもちろん言うまでもないことです。


母親の胎内から生れ出たその時から、父親と母親は心身を尽くして養育に努力してくれ、あらゆる子どものために努力において自分のことを度外視して尽してくれたのですから、その恩に報いるために親孝行をすることは、当然の義務であり、親不孝な人は人間であって人間でないようなものでしょう。
当然のことですので、親孝行だからといって、特に誉めるほどのことでは本当はないはずです。


しかし、この世界の父親や母親である人々に対して少し注意を促したいと思うのは、自分の子どもに対する要求がともすれば大きすぎるということです。


子どもを産んで養育し教育することは、両親の心からの願いであるだけでなく、今の社会の成り立ちからすれば逃げてはならない義務です。
ですので、この義務に従い、この心からの願いを尽くして、生まれた子どもを養育し、子どもの精神を純粋に良く伸ばし、身体を活発健康になるように導いて、きちんと親孝行もするように教えるのは当然のことです。
親孝行もしないような子どもであれば、その子を責めることがあっても良いですし、叱ることがあっても良く、全くそれらのことは両親の権利に属することです。


しかし、それだけにとどまらず、さらに進んで自分たちの生活の面倒をみるように子どもに言うようであれば、少しばかり親として子どもに対して望むべき範囲を逸脱しているように思います。


そもそも、人間の本来のあるべき姿は自分の人生を独立して生きていくことだということから言えば、生れてから父母に養育されてそれ相応の教育を受ける期間を過ぎた以上は、死ぬまで自分自身で生きていく覚悟がなくてはなりません。


つまり、心身が丈夫な間に自分で働いて自分の衣食住を確保すると同時に、老後の準備をしておくくことも大事だというわけです。
すでに自分で自分の老後の用意をしているならば、一切他人を煩わせることがないことはもちろんのこと、たとえ最も近い家族である実の子どもに対しても、ただその愛情が深くてその優しい心を愛するだけのことであり、他に求めることは何もないはずです。


場合によっては、子どもが父母を思う愛情のあまり、老後の生活の快適さや楽しみをより大きくしようと思ってお金や物を親に贈る場合もあるかもしれません。
その場合は、よそよそしく辞退する必要はなく、それらを素直に受け取って楽しむべきです。


しかし、広い世界を見れば、しばしばこの主旨を誤解し、「自分は父親・母親だ、お前は子どもだ、子どもが父母を養うのは当然の義務だ」と言って、一切の生活費を子どもに負担させ、ひどい場合は自分の心身がまだ丈夫なうちから隠居だと称して、ひたすら子どもに依存するだけでなく、自分が贅沢な生活をして子どもにそうさせるように促し、子どもを苦しめる場合もあります。


本当に苦々しい風習で、日本の中の貧しく愚かな一部の人々が、自分の娘を遊郭に売り飛ばして生活費の窮乏の助けとするようなとんでもない悪事が行われることも、このような日本の風習の余波と言えるでしょう。


また、中流以上の家庭においても、子どもを教育することを親の義務とは思わず、ひそかに経済上の計算をして、この子が早く教育を終えて就職したら自分たち親の身は安泰だと思い、早く学業が終わるように促して生活の助けにしようと画策する親もいます。
事柄の美醜こそ違いますが、子どもを犠牲にして生活の助けにしようという事実においては、自分の娘を遊郭に売る人と変わりありません。
父親や母親なのに慈悲のない心だと言うべきです。


ですので、父親や母親は慈愛深く、子どもは親孝行を尽くして、お互いの間に隔たりはないというのが理想ではありますが、その子どもがすでに成長して一人前に独立した男性や女性となった以上は、親であっても子どもに対して要求することはおのずから制限があるべきです。


ましてや、親と子どもの間でお金や物をめぐって対立が起こり、大切な親子の愛情を損なうようなことさえあることを考えれば、親の子どもに対する要求に自制があってしかるべきです。
よくよく注意すべき事柄です。