雑感 人の世において最も大切なもの 金子みすずによせて

人間にとって最も大切なもの、人の世において最も大切なものは何だろう。

いろんな事柄が挙げられると思う。

いくつか考えることができるであろう、人にとって最も大切なものの中で、特に、優しさ、繊細さ、精神の自由の三つは最も大切な要素ではないかと私は思う。
この三つは、一見、あんまり人の世には大事にされないだけに、特にその重要性を強調したいと思う。

優しさや繊細さや精神の自由は、必ずしも人の世において重視されない。
特に、利潤第一主義の資本主義の価値観では、それらは「一銭の得にもならない」と捨てて顧みられない価値かもしれない。

鈍感に、強く、世の価値観に沿って生きた方が、この競争社会を生きるには適していると、漠然と、あるいはあからさまに、多くの人が思うのがこの世というものかもしれない。

現在の日本も、小中高等の学校教育や大学教育から、どんどん教養やゆとりの要素は排除され、実利や競争社会に生き残ることに役立つスキルが重視されている。
それはそれで、大事なことかもしれないし、一概にそれらを無視したり否定することはできないだろう。

シビアな時代においては、若者も、まずは自分のこと、と考えるのも当たり前ではある。
しかし、それが行き過ぎると、生きていく中でたまるいろんなストレスを、自分より弱いものに向けて解消しようとしたり、あるいは本当は多くの責任をからってがんばっている他の人々に対して破壊的な批判や否定をすることで解消しようとすることになるかもしれない。
そのことは、結果として生きづらい社会を、お互いにつくってしまうことになると思う。

本当は、誰もがお互いにいたわりあい、仲直りし、思いやりを持って生きる社会の方が、誰もが生きやすいのはごくごく当たり前のことだと思う。

決まりきった世の中の価値観やものの見方より、自分で豊かな想像力を飛翔させて、この世のあらゆるものを慈しみ育む方が、どれだけ自分も周囲も幸せかは明白と思う。

鈍感に人の心や自然の美しさに対して心を閉じて生きるよりは、繊細にさまざまなものごとの美しさや味わいを感じ取って生きていく方がどれだけ良いかは明白と思う。

しかし、このごくごく当たり前のことを、人はなぜか忘れ、冷笑しやすい。

私が金子みすずの詩に瞠目させられるのは、優しさ・繊細さ・精神の自由の三つの要素が、稀に見る豊かさで湛えられていることだ。

一見平明なことばなので、軽く見て読み飛ばしてしまうのだけれど、丹念に読むと、いかに明晰な無駄のない緻密な構成で無限の広がりの詩の世界がわずかなことばから紡がれているか、ただただ驚くばかりである。

優しさ・繊細さ・精神の自由の三点は、おそらくは、経済の発展や科学技術の発達や制度の工夫からは、必ずしも進歩しない。
人の心自体が変わらないことには、この三つの要素は、外的な条件から直接的に伸びることはないのだと思う。

とすれば、地道に、良い詩を読んだり、素晴らしい芸術に触れることしか、なかなか上記の三点を伸ばすことが可能なものはあんまりないかもしれない。
もちろん、人間の間の直接のコミュニケーションこそが上記の三点を伸ばすことに大いに役立つだろうけれど、それも芸術を媒介とし、あるいは芸術を背景にした時に、特に大きな力を発揮することができると思う。

優しさや繊細さや精神の自由というのは、粗雑で残酷な現実にはともすれば無力である。
金子みすずも、二十六歳で自死したことを考えれば、これほど素晴らしい詩の世界をつくりあげながら、なおこの残酷な生きづらい社会を生きのびることに、かえって優しさや繊細さや精神の自由は十分にそれだけでは役立たなかったと言うこともできるのかもしれない。

しかし、社会の中で繊細なものが失われることほど恐ろしいことはない。
金子みすずが死んだあとの昭和初期の日本は、金子みすずのような繊細さや優しさを失った挙句の果てが、悲惨なあの敗戦だったということも言えるのではないかと思う。
金子みすずの詩の中には、時折「支那」や「朝鮮」の子どもが出てくるが、それらの対象へのまなざしはどれも暖かく、なんらの差別のない、むしろ差別や対立を乗り越える暖かさを持ったものである。
そうした視点や精神をもし昭和初期の多くの人がもっと持つことができていたら、だいぶ歴史も違ったのではないかと思うことは、あまりにも夢想に過ぎるだろうか。

詩は直接現実を変えるわけではないし、現実に直接役に立つわけではない。
しかし、本当に現実を変えるのは、また現実の人生にとって最もかけがえのないものは、詩のこころだと思う。

金子みすずの没後80年の日本や世界が、世界大戦をその間に挟んで、なおいまだに必ずしも繊細さや優しさや精神の自由を十分に持ちえず、かえってそれらをともすれば失いかけているとすれば、いまこそ金子みすずの詩を読み直すことは、最も大事な営みのように思う。