”網干に八郎兵衛と云ふ者、問曰、「私は一向宗にて、一心に弥陀如来をたのみ、御たすけは一定と心得、報謝の念仏申し候」と。
答曰、「常にばくちをうち、色々悪事をなして、御助けを願ふは、弥陀如来をたぶらかすに似たり」と仰ける。
其此八郎兵衛さかりにばくちを打けり。一座の人感動す。”
(仏智弘済禅師法語・二十六節)
盤珪の本を読んでたら、こんな箇所があって、とても面白かった。
現代語訳してみるならば、
・・・
播磨の国の網干というところに、八郎兵衛という人がいた。
盤珪に質問して言うには、「私は浄土真宗で、一心に阿弥陀如来に帰依し、御救いは決定していると心得て、御恩報謝の念仏を申しています。」と。
盤珪禅師が答えて、
「いつもギャンブルばかりして、いろんな悪いことをして、阿弥陀如来に救いを願うというのは、阿弥陀如来をたぶらかすのと同じようなことだよ。」
とおっしゃった。
その頃、この八郎兵衛は、ギャンブルをしきりにしていた。居合わせた人々は驚き感じ入った。
・・・
ということだろう。
おそらく、この八郎兵衛という人がどういう人かは、盤珪禅師はそれまで知らず、八郎兵衛も一切語っていなかったのに、相手の背景を一発で見抜いてこう言ったのだろう。
盤珪禅師は一種の神通力みたいな直観力があったみたいで、語録を読んでいると知るはずもないことをピタリと言って相手をよく導くことが多々あったようである。
にしても、この短い問答、とても面白い。
さすが、すごいポイントを押えていると思う。
思えば、人は弥陀をたぶらかしてばかりいるのかもしれない。
しかし、そのことに本当に気づいたら、できる限りは慎みたぶらかさぬようにしようと努力するのが御恩報謝ということであるし、当たり前のことだろう。
もしそうでなければ真実信心からは程遠いのだと思う。
人のことは言えないし、言うべきではないかもしれないが、弥陀をたぶらかすに似た人の、随分多い世のような気もする。