川合義虎

だいぶ前、加藤文三『川合義虎』(新日本新書)という本を読んだ。

http://www.amazon.co.jp/%E5%B7%9D%E5%90%88%E7%BE%A9%E8%99%8E%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E9%9D%92%E5%B9%B4%E5%90%8C%E7%9B%9F%E5%88%9D%E4%BB%A3%E5%A7%94%E5%93%A1%E9%95%B7%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B6%AF-%E6%96%B0%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%8A%A0%E8%97%A4-%E6%96%87%E4%B8%89/dp/4406016112

(以下はその時の感想)


1、

川合義虎は、二十歳の時に亀戸事件で殺された人で、以前から興味はあったのだけれど、その本に写真も載っていて、本当に清廉な感じで、なんというか、あの時代の残酷さにあらためて涙が誘われる気がする。

なんというか、たぶん、川合義虎らは、本当に日本の共産主義運動が純粋で美しかった頃の、その後にはちょっとあんまりいないような、清廉で理想に燃えた人たちだったように思う。

共産主義者といっても、ちょっと時代が下った昭和初期になると、クートベ帰りのインテリがコミンテルンからもらった金で遊蕩しながら、末端の労働者に現場を知らない無理な命令を繰り返す変な構造になってしまったし、
特高の送り込んだスパイにおびえて、疑心暗鬼からスパイの査問リンチがはびこる、やたら暗いイメージがある。

戦後の共産党というのも、なんだかなあという感じの、杓子定規なリゴリスティックなイメージがぬぐえない。

その点、川合義虎は、いろんなアナーキズムなども触れて、いろいろ迷ったり、試行錯誤の遍歴をしながら自分の思想を形成したあたりのエピソードも共感と興味をそそられる。

旋盤工として働いていた職場で、幾人も無二の親友がいたこと、それまでは不良としてかなり悪いことばかりしていた人間が、川合と友人になってから人が変わったようにまじめで優しい人柄になったこと、などの話などを読んでいると、イデオロギーや思想よりも何よりも、まず深い人間愛があって、その表現として、川合の場合共産主義共産党に入っていったということなのだろうなあと思われた。

あの頃の共産主義者というのは、おそらくのちに多い暗い冷たい感じの杓子定規な共産主義者とぜんぜん異なり、本当に人間愛と正義感から、何か新しい時代を求めて、そうした運動に一身を顧みずに身命を賭していった人たちだったのだろうなあという気がする。

アニメ映画で「千年女優」という作品があって、冒頭で主人公の少女が恋心を抱き、一生その面影を追い続ける、官憲に追われて逃げている共産主義者の青年がいるのだが(その青年は実はその後まもなく拷問で死んでいたことがのちに作品のラストの方でわかるのだが)、
その青年のような、理想を追い求めて利害打算を無視した、美しい人たちが、ごく初期には、川合義虎らのようにけっこう共産主義者にはいたのだと思う。

どれだけ共産主義の理想が色あせ、党やセクトには幻滅が広がっても、大正や昭和の初期の頃、人間愛や正義感から、身を挺して社会の不条理や権力悪と闘おうとし、命を落としていった、そういった人々のことは、忘れてはいけないのではないかと思う。

たぶん、右とか左とか関係なく、立派な人は立派で、語り継がれるべきように思う。

亀戸事件など、今日、どれだけの人が覚えているのだろう。

忘れちゃならないことが、いっぱい本当はあるのだなあと思う。


2、

川合義虎は、関東大震災のどさくさに紛れて、軍隊が社会主義者を銃殺した「亀戸事件」の犠牲者の一人。
川合はその時、二十一歳だった。
亀戸事件は、川合も含めて十人の犠牲者が出ているが、平沢計七が三十四歳でひとりだけ三十代だった他は、みな二十代が七人と十九歳が二人の若さばかりだった。

この本は、川合を中心に書かれているのだけれど、この亀戸事件の時に殺害された人々は皆、おそらくとても深い人間愛と正義感の持ち主だったのだろうなあと思う。
川合は、関東大震災の時、倒壊した家屋の下敷きになった子どもを三人救出したそうである。
平沢は、自警団の在郷軍人朝鮮人を虐殺しようとしているのを見て、必死に庇って押しとどめたそうだ。
北島吉蔵は、震災直後に迅速に動いて、罹災者のための炊き出しなどを行ったそうである。

そうしたエピソードからも、彼ら、初期の共産主義者の深い人間愛がうかがわれる。

また、川合らが主に活動したことは、普通選挙運動や、過激社会運動取締法・労働組合法・小作争議調停法の三悪法反対運動であって、後世から見た時は、リベラリストとしても十分に評価されるべきことと思う。

三悪法反対運動は、五千人のデモなどの動員を実現し、加藤友三郎内閣についに法案提出を断念せしめたらしく、大きな勝利だったらしい。
川合らのようなすぐれた指導者が関東大震災で死なずに、地道に粘り強くそうした活動を続けていれば、案外治安維持法の成立を防げたのかもしれない。

ちょっと時代が下ると、共産党は一時期、議会政治を軽視して暴力革命を主張したり、非合法の武装路線に走ったりしているけれど、この時代の共産党、少なくとも川合らは、普通選挙の実現のため、また三悪法などの国民の自由を窒息させる法案に対して、あくまで平和的・合法的な手段で対抗していたわけで、単に共産主義的な観点からだけでなく、自由主義的な観点からも大きく評価に値する人々であり、事蹟と思う。

また、川合は基本的に、党派心を嫌っていたようで、当時、アナーキスト無政府主義)と共産主義者がしばしば対立し、互いに攻撃しあっていたのに対し、両者の融和と党派心を超えることに心を配っていたようである。
高尾平兵衛というアナーキスト系の労働組合の人物が、川合らの組合を武器を持って攻撃しスト破りをしたという声明を出せと脅迫した時にも(そのような事実はなかったのだが、高尾は川合らの組合の権威を失墜させようとしたようである)、労働者同士が武器で争う先例をつくってはならないと抵抗せずに虚偽の声明書を出して、そのあと辞職したそうである。
しかし、間もなく、高尾が右翼に銃撃されて死んだときには、共産主義系とアナーキスト系の合同の社会葬を行い、その死を悼んだというエピソードにも、無用な暴力を好まず、党派を越えたそのあり方がよく現れていると思われた。
のちの、杓子定規な党派心に満ちた左翼や共産党からはちょっと考えられない寛容な態度と思う。

第一次共産党弾圧で、主要な指導者がほとんど逮捕されたのち、奇跡的に検挙されなかった川合が弱冠二十一歳で、ほとんどひとりで共産党の指導を担ったというのも、すごいことだと思う。
単なる空理空論を嫌って、労働時間の短縮や最低賃金の問題など、具体的な労働者の生活条件の向上を図り、普通選挙運動を大衆とともに積極的に取り組むべきだという方針は、きわめて穏当妥当なものだったろう。

それが、関東大震災のどさくさで、突然逮捕されて、不条理に処刑されたのだから、本当に痛ましいと思う。
もし川合義虎や平沢計七が生きていれば、少しは共産党の歴史も違っていたのかもしれない。

平沢計七も、とてもすぐれたあたたかな人柄の明るい人物だったらしく、演劇などの文化運動にすぐれた才能と手腕を発揮し、のちの生協みたいな協同で食品を購入して売る組合をつくったり、当時は高利の銀行ばかりだったので、労働者のための銀行(金庫)を設立したりと、きわめて実践的な活動をしていたようだ。
しかし、高学歴の左翼インテリから何度も労働組合から除名されたり、退けられたりして、ずいぶん苦労したらしい。

なんというか、良い人たちは早くに死んで、左翼でも教条主義と党派心と学歴にこりかたまった嫌な連中が生き延びてのさばることが多かったのかもしれない。

にしても、亀戸事件はあまりにも哀れだ。
大杉事件の方は、いちおう犯人(とされた)甘粕大尉は裁判で裁かれたし、大杉らの遺骨も一時は右翼に奪われたりしたが最終的に遺族のもとにかえってきた。
だが、亀戸事件は、とうとう犯人は何の裁きも受けず(戒厳令下の合法な治安維持活動とされたそうである)、しかも遺骨はどこにいったかわからずとうとう今に至るも見つかっていないとのことである。
しかも、大杉がスター性があって今でも有名な人物のため、繰り返し大杉のことは語られるが、それに比べて亀戸事件のなんと地味で一般的に知られていないことか。

これはひとつ、もし可能であれば、私がいつか亀戸事件や川合義虎や平沢計七を小説かノンフィクションに書きたい。
そうせねば、あまりにも浮かばれんだろう。

あと、この本を読んでて、興味深かったのが、「南葛魂」という言葉。
川合義虎らは、主に南葛飾の地域で運動し、その地域の労働者たちは、とても連帯心や義侠心が強く、一種独特の気風を醸し出し、他の地域の人々からもとても憧憬嘱望され、「南葛魂」と自他ともに呼称し、尊ばれたそうである。

ふと思い出したのだが、私が小さい頃に流行っていたサッカーアニメ「キャプテン翼」は、たしか小学校も中学校も「南葛」で、「南葛魂」とか呼称してなかっただろうか。
偶然の一致だろうか。
それとも、時空を超えて、何かしら関わりがあるのだろうか。
案外、その由来や意味していたものが忘れられても、なんとなく気風や言葉として、そうした言葉がのこっていって、アニメにのちに再生していたと思うと、とても興味深い気もする。