小和田恆 『平和と学問のために―ハーグからのメッセージ 』

だいぶ前、小和田恆『平和と学問のために―ハーグからのメッセージ 』(丸善 叢書インテグラーレ 5)という本を読んだ。


http://www.amazon.co.jp/%E5%B9%B3%E5%92%8C%E3%81%A8%E5%AD%A6%E5%95%8F%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB%E2%80%95%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%82%B8-%E5%8F%A2%E6%9B%B8%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%AC-5-%E5%B0%8F%E5%92%8C%E7%94%B0-%E6%81%86/dp/4621079727

(以下はその時の感想)



国際司法裁判所について、わかりやすく説かれた講演録で、なかなか面白かった。

小和田さんは、ネオコンロバート・ケーガンの”of paradise and power”という、国際社会は結局力の論理で動いており、ヨーロッパとアメリカの地位が逆転した、という理屈を批判。

1899、1907年のハーグ平和会議と、1929のパリ不戦条約、1945の国際連合憲章を経て、国際司法裁判所が整備され、むき出しの力の論理をなんとか抑えて、法のもとに国際紛争を解決しようとしてきた国際的な努力の歩みを説く。

そして、「国際公益」という概念を説いている。
グローバル化した社会は、いわばひとつの社会のようなもので、一国だけでは解決できない問題もあるし、自国のことだけを考えていては促進できない、いわば「公益」が国際社会に存在しているという。

具体的な国際公益を構成する要素は、「国際公共財」と呼ばれるもので、小和田さんは、主に五種類の国際公共財があると指摘していた。

1. 安全保障
2. 繁栄の追求
3. 人権の尊重
4. 環境保全
5. 伝染病の撲滅

こうした要素が、国際公共財であり、国際公益を構成している。
各国も、かつてのような自国の利益を力の論理のみではかるのではなく、国際公益・国際公共財を考えなければ、自国の利益や存続も場合によっては危うい。
国際協調では不十分であり、国際公益を促進する積極的な国際協力がこれからの日本には必要だ。

と、大略、そんなことが書かれていた。

あと、国際公益の促進における、フリーライダー・タダ乗りをどうやって防ぎ、なくしていくか、いかにその国の利益にもなることを説得するか、ということの大切さも説かれていた。

小和田さんによれば、日本は、開国当初はけっこう国際法に則って国際司法に訴えでて十五件ぐらいの係争にかかわり、勝訴したり和解することも多かったらしいが、
1903年不平等条約の適用問題で英仏独を国際司法裁判所の前身の機関に訴えでて敗訴となり、それ以来、国際司法に対する不信感が高まり、2003年までぜんぜん国際司法裁判所を実際に活用することがなかったらしい。
2003年に、オーストラリア・ニュージーランドとマグロの訴訟で、百年ぶりに国際司法裁判所で日本も争い、日本が勝訴したとのことである。

しかしながら、アフリカや東南アジア、南米の国々などでは、もし国際司法裁判所がなければ紛争か戦争になっていたであろうような領土争いや国際法違反が、国際司法裁判所を通じて処理され、無事に解決されているそう、事例もけっこう挙げられていた。

日本は、1903年の敗訴のせいか、どうも国際正義や国際法や、国際司法というものに対して、無関心やニヒリスティックな感情が強い気もするが、本当はうまくこうした国際司法や国際正義を駆使する方が、自国の国益にもなるし、国際公益を促進する場合も多いのだと思う。

にしても、日本の周辺諸国というのは、北朝鮮はもちろんのこと、アメリカ・中国・韓国・ロシアと、およそ国際公益を考えていない、無責任な自国中心主義にこりかたまった国が多いように思える。

日本としては、力でそれらに対抗することを考えるのももちろん大切だが、国際司法裁判所をうまく活用し、国際公益や国際正義を積極的に提唱して、ヨーロッパやアジア・アフリカなどの信頼や支持を調達することも、身を守る術になると思われる。

国際公益を掲げて、EUやインドやAZEANあたりとうまく連携して、米中露韓あたりを制御していく知恵と理念が、これからの日本にとっては、自国のためにも大切な気がする。