明治・大正・昭和に独自の思想を紡いだ思想家・石川三四郎は、デモクラシーを「土民主義」と翻訳し、単なる政党政治やお客様民主主義ではなく、その土地に根ざした直接民主主義的な精神こそがデモクラシーの本義だと主張した。
「民主主義」という言葉自体がしばしばタブーであった石川の時代と異なり、現代の日本は民主主義が一応公式のものとなり、どの政治家や政党も民主主義を標榜して久しいし、誰もが常識のように民主主義を当たり前に思っている。
しかし、そのほとんどは政党政治やお客様民主主義としての民主主義であり、土民主義としての民主主義の精神がどこまで今の日本に根付いているかは、甚だ疑問でもある。
菅首相んは、以前から霞ヶ関の官僚支配を打破し、中央集権から地方分権を推進する「分権革命」を標榜している政治家である。
長年、わが国が極度の中央集権のために、どれだけ国の形がゆがめられ、膨大な国費が特権官僚の天下りに費消されてきたか、
またこの二十年、いかにわが国の政治が停滞してきたかを考えれば、
官僚制度の改革や政治主導の確立、国民主権の本当の確立は、喫緊の課題である。
政権党である民主党の使命はひとえにそのことにあろうし、野党のみんなの党なども、かねてより脱官僚国家樹立をとなえているので、心ある与野党の政治家にはそのために大いにがんばって欲しいと思う。
しかしながら、分権革命や本当の国民主権というものは、いくら政府や政治家が上の方で言っても、それだけでは実現しないものと思う。
デモクラシーを単なる政党政治としてではなく、「土民主義」だと受けとめ、一人一人が自分自身こそが地域や国家を担うと自覚し、さまざまな形で直接・間接ともに政治に働きかけ、国家公共を形成し担う精神を涵養し育み実践してこそ、本当の意味の分権革命も国民主権もありえるのだと思う。
分権革命と土民主義というものは、本来はコインの裏表のようなもので、どちらが欠けても本当はありえないと思う。
土民主義のような精神の裏打ちの欠けた、単なる上からの制度改革だけの分権革命は、必ずしも十分な成果をあげないと思うし、制度的な改革を伴わない精神論だけの土民主義では、十分にその成果をあげることはできないかもしれない。
政治に対するシニシズム、冷笑や放棄の態度が有権者にはいくばくか広まっているのかもしれないが、わが国の民主主義はまだ道半ばもいいところであり、これからこそが分権革命と土民主義の本領発揮の時代と心得れば、冷笑や放棄はもったいない、面白い時代となるし、面白きこともなき世を面白くなしうるのではないかと思う。