ドラマ「15歳の志願兵」 感想

先日、再放送であっていたNHKのドラマ「15歳の志願兵」を見た。

http://www.nhk.or.jp/nagoya/jyugosai/

今年の八月十五日頃にたしか本放送はあってたいのだけれど、その時は見過ごしてしまったので、今見ることができてよかった。

とても心にのこる作品だった。

ある中学が舞台で、教師や配属将校の指導や演説により、また上級生たちのつくりだす雰囲気によって、少年たちが航空兵に「自発的に」志願せざるを得ない状況がとてもリアルに描かれていた。

主人公は視力検査ではねられて、結局出征しないのだけれど、本当は文学を志望していた親友が、出征して命を落とす。

戦争の是非や国民として協力することの是非をとりあえず脇に置くとして、あの時代、あの戦争に抵抗したり非協力の姿勢を貫くことは非常に難しかったろうことを考えると、なんとも溜息がつかされる。

すべての人を巻き込む、有形無形の圧力や煽動や働きかけがあり、積極的に協力するように自発的に仕立てあげられ、
また仮に積極的に協力しないとすれば、そうしている人々に対して大きな負い目を感じるようにさせられたのが、あの時代というものだったのだろう。
この番組を見て、あらためてそのことについて考えさせられた。

その時代の風潮の良し悪しや是非の評価は別にして、その時代の風潮に巻き込まれないということは、特に非常事態においては、非常に難しい、至難のことなのかもしれない。

番組のラストで、戦死した親友の死の前日の日記を親友の母から渡された主人公が、以下の文章を読むところは、なんとも胸を打たれた。


「空は晴れて星が出ている。私の心は澄み切っている。

母の顔を見ればまた、また感傷におちいるかもしれないが、悔恨や未練は、先日あの川へ捨ててきた。

わが友はそんな私に気がねをしているのだろう。

明日、わが友は見送りにきてくれるだろうか。

堂々と見送ってほしい。そして、堂々と生きてほしい。私もそうするつもりだ。

人間は、何のために生まれてきたのか。その答えを捜すつもりでいる。

わが友よ、あの日私は考えるのをやめた。だけど、それは間違いだった。

考えをやめること、それこそが人間の敗北なのだ。

だが友よ、私はまだあきらめてはいない。

戦争をしているのは人間で、戦場にいるのも人間ならば、

どこにいても、どこへいこうと、私は戦いのさなかにも崇高な芸術を描き出すことができるだろう。

そうするつもりだ。

私は人の心に向かって、心の眼をむけようと思っている。

銃や剣ではなく、心眼を向けるのだ。そしてペンをとるのだ。

友よ、私は戦場で人を殺すのではなく、人が生きるための魂を存分に描き出そうと思う。

友よ、いつか戦場でみた人間の魂の描いた作品をきみに読ませたい。

友よ、そんな日が早晩やってくることを願わずにはいられない。

早く、こんなつまらない戦争が終わることを祈らずにはいられない。

友よ、それまでさらばだ。

お母さん、寂しくさせることをお許しください。あなたに永久の幸あれ」


「考えることをやめること、それこそが人間の敗北」

という言葉は、痛切に胸に響く。

その親友の母が、「私に学問があれば、あの子の気持ちを理解できたんですかね。あの子を死なせずにすんだんですかね」と問うのに対し、主人公は、

「僕たちは学校で死ねと教わったんです。学問がなかったのはこの国です。」

と言うのも、万感こもった、本当に心にのこる言葉だった。

丸山真男渡辺一夫鶴見俊輔らも、きっとこのような痛切な思いから、戦後の学問を築いたのだったろう。
しかし、今、本当の学問というのは、この国にどれだけあるのだろう。

本当に人に批判的な知性や人を生かす、生きる道を教える、本当の「学問」がかつてなかった日本。
そのために生じた悲劇。
そして、その回避のために、我々はどれだけの努力をしてきて、今その努力がきちんと継承されて生かされているのだろう。

そんなことを、あらためて深く考えさせれる。

心にのこる作品だった。