花祭りの日によせて

今日は花祭りの日で、日本では仏陀釈尊の生まれた日とされる。
スリランカなどではウエサカ祭の日とされている。)


私が通った幼稚園は浄土真宗のお寺さんがやっているところだったので、そういえばかすかな記憶でお花祭りの日には甘茶を注いだり歌を歌ったような記憶がある。


そんなことを思い出しつつ、ふと、自分は仏典の中のどの言葉が好きだろうかと考えてみた。

その時々で変わるような気はするけれど、以下の華厳経の言葉がわりと好きである。
やや長いが、要するに「信」は心を澄まし、良い方向に人生を向かわせるという意味である。


「信は道の元とす、功徳の母なり。一切のもろもろの善法を長養す。疑網を断除して愛流を出で、涅槃無上道を開示せしむ。
信は垢濁の心なし。清浄にして驕慢を滅除す。恭敬の本なり。また法蔵第一の財とす。清浄の手として衆行を受く。
信はよく恵施して心に悋しむことなし。 信はよく歓喜して仏法に入る。 信はよく智功徳を増長す。信はよくかならず如来地に到る。
信は諸根をして浄明利ならしむ。信力堅固なればよく壊することなし。 信はよく永く煩悩の本を滅す。 信はよくもつぱら仏の功徳に向かへしむ。
信は境界において所着なし。諸難を遠離して無難を得しむ。 信はよく衆魔の路を超出し、無上解脱道を示現せしむ。
信は功徳のために種を壊らず。 信はよく菩提の樹を生長す。信はよく最勝智を増益す。 信はよく一切仏を示現せしむ。
このゆゑに行によりて次第を説く。 信楽、最勝にしてはなはだ得ること難し。」


上記の華厳経の言葉は、親鸞が特に愛した言葉だったらしく、教行信証の信巻に長々と丸々引用されている。
おそらく、親鸞自身を鼓舞し励まし支える言葉でもあったのだろうと思う。


「信」、つまり、この人生や世界に、何か尊いものや正しいことや信頼するに値するものがあって、この人生は何の意味もない空しい滅びではなく、生きるに値する善いものである、ということを信頼し、信じる心というのは、たしかに人を導き、守り、育むものだと思う。


おそらく、仏陀の生きた時代も、大国同士の戦争やカースト制度による差別やさまさまな不条理や苦しみがあり、何も信じれなくなった人が山のようにいたのだと思う。

仏陀の教えにはさまざまな内容があり、そのどれを特に受けとめるかで後世さまざまな宗派や教えに分岐したが、華厳経のこの箇所や、それに大きな影響を受けた親鸞などは、「信」こそが仏陀の説いたことの中で最も大切なことだと受けとめたのだと思う。
人は多少生きていれば、誰であれ悲しみや苦しみに遭う時もあり、そうでなくてもこの世の不条理や醜い様子を見聞きして、いつの間にか何かを信じる心がともすれば失われてしまうようにも思う。
しかし、人間にとって最もつらいことは、この世に何の道理もなく意味もなく、自分の命が空しく過ぎていくと感じることだと思う。


そうではなくて、この世には道理があり、人生には意味があり、意味あらしめることができると仏陀釈尊は説き、それを華厳経を後世に伝えた人や親鸞のような人は信じて、一歩前に踏み出していったということなのだろうと私は感じている。


花祭りの日なので、つらつらとそんなことを考えていると、はたして自分には何かを信じる心はあるのか疑わしい気もしてきたが、甚だ微弱でも、何も信じないよりかはこの世には道理があり、生きる意味はあるということを、信じて生きていきたいようには思えた。

怨みに報ゆるに徳を以てせよ

ロシアのウクライナに対する侵略戦争と、その結果としてのウクライナの被害や瓦礫の山を報道で見ていて、ふと思ったことがある。
日中戦争のあとの、中国はまさに今のウクライナのような目に遭いながら、「怨みに報ゆるに徳を以てせよ」と言って、日本に対する報復や賠償請求をしなかったということは、本当にすごいことだったのだなぁということである。


今のプーチンのやり口は、昭和初期の日本と不気味なほどよく似ている。
まず、戦争を戦争と呼ばずに「特別軍事作戦」と呼び、戦争ではないとしているが、これは戦争ではなく「満州事変」や「日華事変」と呼称したあの時代の日本とよく似ている。
また、一部支配地域に傀儡政権をつくったり、分離独立をさせようとしたりするやり方は、満州国や冀東防共自治政府などとよく似ている。
国際社会から経済制裁を受けて苦しんでいるあたりもよく似ている。
そこから先が似ないことを願うばかりである。


3月半ばの時点で、ウクライナは今度の戦争によるインフラの破壊などの経済的損失が七十兆円を超えると発表していた。
その見積もりはさらに増え続けているのだろう。
また首都近郊で発覚した虐殺や暴行などのロシアの戦争犯罪による被害は、金額には換算できないものである。
日中戦争における中国の損害も、戦争が長期に及んだだけに計り知れないものがあったろうとあらためて思う。


「怨みに報ゆるに徳を以てせよ」と言って対日賠償請求を放棄したのは国民党の指導者の蒋介石だった。
ただし、蒋介石の数日前に共産党周恩来が同様の方針を発表しており、蒋介石はそれに対する部分もあったのかもしれない。
どちらが先で、背後にどのような思惑があったかはともかくとして、蒋介石周恩来が日本に対する賠償請求を放棄し、報復もしなかったのは紛れもない事実である。
その後、日本がODAなどを通じて多くの経済的・技術支援を中国に行ったことも事実だが、もし巨額の賠償請求がされていた場合は、敗戦間もない頃の日本の負担や歴史のルートもかなり違っていたであろうことを考えれば、中国の寛大な態度はやはり忘れてはならぬもののように思う。


報道を見ていると、ウクライナの人々のプーチンに対する怒りや憎しみは相当なもののようである。
それは当然のことであり、同様の立場に立てば誰もが憤らずにはおれまいと思う。
そして、まだまだ戦争はずるずると続くのかもしれないし、仮に停戦がなされても、東部地域をロシアが占領したり分離独立させれば、ずっと戦争の火種はくすぶり続けるだろう。
なので、まだそのような時期ではないのかもしれないし、これはあくまで当事者が自発的に決めるべきことで、遠方の何の苦しみもなく拱手傍観している人間が言うべきことではないかもしれないが、もし停戦や戦争終結の時を迎えるのであれば、ゼレンスキーやウクライナの指導者や人々には、できれば「怨みに報ゆるに徳を以てせよ」の精神を発揮して欲しい。
それは何も中国だけの精神ではないはずで、ロシアやウクライナにとって馴染み深いはずのトルストイもまた、「善をもって悪に報いる」ことを力説していた。


とはいえ、仮にウクライナの人々がそのような超人的寛大さを仮に発揮したとしても、今の日本がほとんどかつての中国の寛大さへの感謝も持たず忘れていることを考えれば、ウクライナにそう勧めて良いのか、またロシアはろくに感謝もしないのではないかという気もしてきて、ウクライナにそんな寛大さを勧めて良いのやら躊躇されてもくる。


しかし、今後の世界が、露中対それ以外の国際社会という新たな冷戦を迎えるという予測もある中、なるべくその新冷戦が世界滅亡につながるようなひどいものにならぬように、少しでも怨みに報いるに徳を以てし、かつての友情や受けた恩義は忘れないような、そんな世の中であって欲しいものだと思う。

「台湾の不思議な思い出」

「台湾の不思議な思い出」

 

 

旅行をすると、誰にでも少し不思議な思い出ができる場合がある。

あとで思い出すと、そのつど何かとても大切なことを教えられるような思い出が。

私も、かれこれ二十年ぐらい前に台湾をひとり旅した時に、こんな思い出があった。

 

当時、二十代前半だった私は、一週間ぐらいの予定で台湾にひとり旅に行った。

ガイドや団体が嫌いな私は、なんとかなるだろうと思って宿だけ予約して行った。

台湾は漢字で看板や標識が書いてあるし、ときどき日本語が話せる親切なお年寄りが当時はまだたくさんいて、私はぜんぜん中国語ができないけれど、不自由なく旅ができた。

コンビニに行けば美空ひばり浜崎あゆみの歌謡曲が流れてきて、やっぱり近いところなんだなぁと思ったものだった。

 

当時、人生に疲れ果てて、いま思えば軽いうつ症だった私は、何もかも忘れて、何か生きるよすがや生きる喜びみたいなものを見つけたいと思っていた。

それで、最初の二日か三日は台北故宮博物院に入り浸って、ひたすら見て回った。

夏殷周やそれよりももっと昔の良渚文化の時代の玉製品のとてつもなく美しい品々や、宋元明清の頃の美しい陶磁器など、人類の至宝とも呼ぶべき中華文明の精髄の美術品を見て回った。

 

しかし、それらは見ることができて良かったとは思ったものの、ずっと見ていると、あまりにも美しいものは見るとなんだか疲れるような気がしてきた。

本当は一週間ほとんど故宮博物院ばかり見て回るつもりだったのだけれど、さすがにもういいかなぁと思い、予定になかったけれど、街をぶらぶら歩くことにした。

 

日本円だと二百円ぐらいで、とてつもなく大きなソフトクリームを買うことができて、それを食べたり、なんだかよくわからない揚げ物や、夜市ではすっぽんのスープも六百円ぐらいで食べたりすることができて、それも楽しかった。

しかし、そうしてぶらぶら街を歩いても、なんだかすべてが虚しい気がした。

どこかしら沖縄に似ているような、なんとなくのんびりした南国風の時間が流れる台湾で、気持ちがのんびりできるかと思いきや、よく理由のわからない焦燥感が日本にいる時と同じようにつきまとっていた。

 

その日は朝から二二八和平公園や中正記念堂なども見に行ってみたが、あんまり何も頭に入らず、気持ちが滅入るばかりだった。

ふと公園の石段に座って、ガイドブックを見ると、鴻禧美術館という美術館が少しだけ載っていた。

行ってみたいと思ったが、どうも地下鉄の駅から随分遠い。

どうやって行ったらいいかもわからない。

ちょっと歩くようだけれど、地図を見る限り、歩いて行けないこともなさそうなので、てくてく歩いて行くことにした。

 

それで、台湾大学医学部のとてつもなく巨大な建物のある角を曲がって、仁愛路という大きな通りをずっと歩いて行った。

大きな道路なのだけれど、歩いている人は誰もおらず、びゅんびゅん車がすごいスピードで通るばかりだった。

はたしてこの道でいいのか、疑問に思いながら、ずっと歩いて行った。

道に迷うはずはないのだけれど、どうもなかなか着かない。

道路の左右には、大きな塀があって人が入ることができないような、何か大学やら官公庁やらどこか巨大な企業やらの施設が並んでいるばかりだった。

 

そうして、歩いていていくと、ふと向こうの通り側に、そこだけぽっかりと、低い平屋の日本家屋みたいなものが見えた。

あれは何だろうと不思議に思い、どうしても近寄って見てみたくなった。

しかし、横断歩道がそのあたりには全然ない。

それで、いま考えてみれば無謀だったけれど、ちょっと車がたまたま通らない時を見計らって、片側三車線ぐらいある道路を突っ走って横切って、向こう側に渡ってみた。

 

その日は日が照りつけて暑かったのだけれど、心臓がバクバクいって、ますます汗が流れてきた。

向こう側の道路に辿り着いて、汗を額からぬぐいながら、門柱のあたりから中をのぞいてみた。

すると、緑がたくさんあるちょっとした玄関前の庭のようなところに、中国の古い服装のような日本の作務衣のような服を着た、坊主頭のたぶん六十歳ぐらいの家の主らしいおじいさんが、たまたま庭樹に水を撒いていた。

私を見て、ちょっと驚いた様子で、「日本人か?」と話しかけてきた。

「はい」、と答えると、「ちょっとお茶でも飲んでいきなさい」と言ってくれた。

自分の家の玄関の戸をがらがらと横にあけて、家の中の誰かにお客さんが来たからお茶を出してといった意味のことを大きな声で言って、振り返って私を来るように手で招いた。

 

そんな申し訳ないですと、一応遠慮するふりを少しだけしたあと、のどがからからだったので、ちょっとぐらいならいいかと思い、帽子を脱いで門柱から中に入って、敷石の上を歩いて玄関に向かった。

そんなに門柱から玄関まで遠くはないのだけれど、芭蕉や檳榔樹が元気に庭に葉っぱを広げていて、そういった点では南国風なのだけれど、日本燈籠や手水鉢があり、建物もどう見ても古い日本家屋のようだった。

庭には外からではよくわからなかったけれど、ブーゲンビリヤやハイビスカスの花がたくさん咲き、そして季節外れに思われたけれど、小さな桜や牡丹の花も咲いていた。

おじいさんの後に続いて、玄関で靴を脱いで廊下に上がり、少しきしきし鳴る木の板の廊下を歩き、書斎の部屋に入った。

おじいさんは椅子に座り、私もテーブルの向い側の椅子に座るように勧められて座った。

ハンカチで汗をぬぐい帽子を置いて、部屋を見回すと、日本の昔の、あるいは中国や台湾は今もそんな感じなのだろうか、いかにも知識人の書斎という感じがした。

本棚にはぎっしりと、台湾の地理や歴史に関するらしい本が置いてあり、中にはおそらく日本に関する書物と思われる『長崎著聞集』という本が『公教遺事』や『瓊浦把燭談』といった本に混じって置いてあった。ドイツ語や英語の本も若干あった。

鳥籠があり、きれいな南国風の小さな鳥が中に三羽いて、ときどきチッチッとかすかに鳴いていた。

 

「私は日本から旅行に来ているのですが、あの、日本人なのですか?」と私がおそるおそる尋ねると、おじいさんはからからと笑って、「なんだ、門のところの表札を見なかったのか?」と答えた。

「はい」と私が言うと、おじいさんは腕を組んで、「ずいぶん長くここに住んでいるからね、日本人とか本省人とか外省人とか原住民とか、そういうのはどうでもいいさ」と言った。

なんだかよくわからんなぁと思い、あらためて見てみると、今どき珍しい立派な髭を口元に蓄えていて、立派な風貌のおじいさんだった。

目はわりと大きくてくっきりとした目もとだった。

名前を尋ねると、「じゃあ、老台北と呼んでくれよ、ろうたいほく、ラオタイペイ」と笑いながら言うので、あんまり名前を尋ねない方が良いのかと思った。

 

ちょうどその時、臙脂色のスカーフのセーラー服を着た若い女の子が、急須と湯飲み茶わんと茶菓子をお盆で持ってきてくれた。

目のぱっちりした美少女で、湯飲み茶わんの中には何か葉っぱを丸めたようなものが入っていて、急須からお湯をそそぐとそれが花のように開いた。

ジャスミン茶ですの」とその娘さんが日本語で言ったので、ありがとうございます、と言いながら、日本人だろうか、それとも台湾の学校も制服があるみたいだから台湾の人だろうかと思い、尋ねようと思いながら、すぐにまた部屋から出て行ったので、尋ねることができなかった。

でも、無愛想な感じではなくて、とても清純な感じの、感じの良い娘さんだった。

「お孫さんですか?」と尋ねると、老台北はうなずいて、「あれの父親が帰って来ると約束したのだが、なかなか戻らなくて、ここでしばらく待っているんだよ」とのことだった。

 

それから、お菓子やお茶をいただきながら、いろいろ話した。

お菓子は、羊羹のような、ういろうのような、それともちょっと違うような生姜の効いた甘いお菓子だった。

堆朱のお盆と青磁のお皿もきれいだった。

日本のことを老台北からいろいろ聞かれたので、べつだん誰でも知ってそうなことを答えると、ときどき目を瞠って驚いていた。

日本のどこから来たのか?と聞かれたので、「福岡」と答えると、「ああ、明石さんの出身地だな」と言うので、明石元二郎かと尋ねると、「そうそう、明石大将」と言っていた。

「明石さんも、結局台湾に骨を埋めて、台湾の土になりたかったんだろうなぁ」とも言っていた。ロシア革命で革命派を支援していかに明石さんが活躍したか、みたいな話もしていた。

私が明石元二郎の孫が天皇陛下の学生時代の御学友でよく皇室関連の番組に出ていると言ったら驚いていた。

 

それで、私が「台湾だと日本はわりと今でも好まれているみたいですね。明石元二郎とかが良いことをしたんでしょうか?」と尋ねてみると、老台北はうーんと首をひねって、考え込んだ。

「個々の人で台湾の土になりたいと思って努めた人はいたかもしれないが、総じて言えば、日本人は台湾で貴族のように傲慢に振る舞っていたし、それを当然と思っていた。

台湾の人はおおらかで優しいから、わりと日本の良いところばかりを見て思い出してくれるけれど、そんなに良いものでもなかったと思うがね」

と、深い諦めのような表情で言った。

 

続けて私が、「その後に来た蒋介石があまりにもひどかったので、その前の日本が相対的に良く見えた、美化されたということなんでしょうか?」と尋ねると、

台北は、「うーん、蒋介石は、あれも初めはまじめな良い人物だったのだけれど、いろんな流れがあったからなぁ。あれはあれで気の毒な人間だよ」と腕を組みながらしみじみと言った。

 

なるほど、と相槌を打った上で、最近は中国が軍事的に勢力を拡大しているようで、日本の中には台湾を守らねばならないと主張している人々もいるけれど、台湾に住んでいる老台北から見て、そういう意見はどう思いますか?と尋ねてみた。

すると、老台北は、

「台湾人というのは、本当に芯が強くてしっかりしていてね、オランダや鄭氏や清や日本や蒋介石の支配が今まであったけれど、台湾の人々はしっかり生き続けてきた。

日本が台湾を守るなんてことはおこがましいことで、今の大陸の共産党であれ、どんなに強い相手が力を振るって来ても、台湾の人々はしっかりとしなやかに生き続けるし、台湾のことは台湾の人々が決めていくさ。」

と言った。

 

そんな会話のはしばしが今も不思議と心に残っている。

それと、話の順序は忘れたけれど、老台北が言うには、日本はそんなに台湾の人たちに対して良かったわけではなく、1951年のサンフランシスコ講和条約の時に、日本に住んでいた台湾出身者は、それまでは日本国籍があったのだが選択の余地なく日本国籍を失った、イギリスなどの他の国は独立した植民地出身者にはどちらの国籍を選ぶか選択の自由を与えたのに、日本は一切それもなかった、台湾の人々には本当に日本はそういったところでは冷淡だった、ということを言っていて、私ははじめて知ったので、考えさせられた。

また、イギリスやアメリカが植民地に議会を認めたのに、とうとう日本は台湾に議会設置を認めなかった、ということも言っていた。

そうした話を聞きながら、老台北ははたして日本人なのか、それとも台湾の人なのか、結局その時は私にはよくわからなかった。

 

台北とは、漢詩の話なども少しだけした。

私が一応少しだけ漢詩を知っていて、誰が好きかと尋ねられたので李煜や王士禎や納蘭性徳が好きだと言うととても喜んで、私にはよくわからなかったがたぶんそれらの詩人の詩を、とても流暢な中国語の発音で暗唱してくれた。

故宮博物院でいろいろ見てきた話もすると、あれも見たかこれも見たか、あれはなかなか見ごたえがある、とうれしそうに話していた。

しかし、その中で、「本当の宝は人間であって、どんなに美しい陶器や玉も、一人の人間の大切さや尊さには到底及ばない。しばしばその当たり前のことを忘れて本末転倒になりがちで、美術品よりも人間が大切とわかっている統治者の時は国がよく治まり、美術品の方が人間よりも値打ちがあるように勘違いした為政者の時は国が乱れたものだった」と老台北は言った。

 

それから、鴻禧美術館はここから近いのかと尋ねると、すぐ近くだという話になり、しかしそろそろ閉まる時間だから急いだほうがいいかもしれないと老台北に言われて、席を立って帰ることにした。

「また遊びに来なさい」と老台北は言ってくれた。

挨拶し、門を出ていくと、セーラー服の美少女が後ろから「もし」と声をかけて走ってきた。

驚いて立ち止まって振り返ると、私が帽子を席の近くに置き忘れていたそうで、帽子を渡してくれた。

そして、その時に、その娘さんが私に、「あの、いろいろ大変なこともあるかもしれませんけれど、生きていることは何にもかえがたく尊いことですわ」と言った。

ちょっと面くらいながら、ありがとうございます、とだけ言って帽子を受け取り、私は立ち去った。

 

それからすぐに鴻禧美術館に辿り着き、閉館ニ十分前だそうだったけれど、急いで見て回った。

いろいろ美しい嗅ぎタバコ入れや阿片のキセルなどはあったけれど、故宮博物院の方がそれはやっぱり大規模で、わざわざ来なくても良かったかなぁとも思った。

入り口の受付のおじいさんが日本語ができる人で、間に合って良かったですね、と話しかけてきたので、本当はもっと早く来る予定が、すぐそこにある日本風の家屋が気になって立ち寄ったら長話になりまして、といった話をした。

すると、その受付の老人はけげんな顔をして、「あそこに立ち寄ったのですか・・・」という当惑した表情だった。

でも、それ以上何も聞かない方が良い気がして、詳しくは何も話さず、その美術館を後にした。

 

それからさらに二日ぐらい台湾を旅行し、淡水という台北からちょっと離れた町などをぶらぶら歩いたりして、それから日本に帰った。

理由はよくわからないが、どういうわけかだいぶうつ症みたいな症状が回復し、また生きていこうという気になった。

日本に帰ってからもたまに、あの不思議な日本家屋と老台北のことを思い出した。

故宮博物院などの美術品より、私にとっては老台北の方が印象深かった。

 

そこでとどまれば、ただ単に旅先の良い思い出だったのだけれど、それから十三年経った、今から十年前のある時に、驚くべき話を聞いた。

たまたま他大学で霧社事件などの台湾の歴史を研究しているという私と同い年のXさんと、ある研究会で知り合った。

Xさんに、その日本家屋での思い出の話をしてみた。

Xさんは、仁愛路にそんな建物ありますかね?といった反応で、ぜんぜんその日本家屋のことは知らなかったのだけれど、それから一週間後ぐらいに長文のメールで調べたことを教えてくれた。

 

そのメールによれば、その日本家屋は今でもたしかに台北の仁愛路にあること、しかし通常は門は閉まっていて中に入ることはできず、無人であること。

台北の一等地である仁愛路に面した土地に、なぜそこだけ忽然と日本家屋が残っているかはしばしば台湾の人にとっても謎とされているようで、都市伝説として以下の話がネットで調べると中国語のいくつかのサイトに載っていたとのこと。

(として、三つほどURLが載せてあったが、私は中国語は読めないので、よくわからなかった。しかし、あの日本家屋らしき写真がそのサイトにも載っていた。)

 

その日本家屋の持ち主はA大佐という人物だった。

A大佐は日本陸軍の情報将校で、若い時の蒋介石が日本に留学した時に蒋介石の世話をした関係で、蒋介石とは昵懇だった。

A大佐は台湾総督府に長く勤務していたが、台湾の議会設置請願運動に共鳴し、早く退役し隠居した。

また満州事変や日中戦争に批判的な立場で特高警察の監視を受けていた。

A大佐は上記のとおり変わった人物だが大の台湾好きで、その教育のせいかその一人息子も台湾好きで、親子とも台湾の民俗学を研究し、息子は台湾の原住民の阿美族の女性と結婚した。

しかし、その女性は出産で死亡し、A大佐は息子と孫娘と三人で暮らしていた。

息子が太平洋戦争に徴兵されて行くことになり、敗戦後、息子はビルマで戦犯容疑で逮捕された。

日本の敗戦後、蒋介石の国民党軍が台湾にやって来て、日本人は引き揚げることになったが、A大佐は息子の帰りを待ちたいと言い、蒋介石は特別に許可したので、引き続きA大佐と孫娘はその家に留まり続けた。

しかし、蒋介石の特別の許可をよく理解していない国民党軍の一部が、二二八事件の時に誤ってその家屋に押し入り、A大佐も孫娘も無残に殺された。

また、帰りを待たれていた息子も、無実の罪でちょうどその頃BC級戦犯として死刑執行された。

蒋介石は慟哭し、その家屋の保存を命じた。

その後、蒋経国の時代に何度か開発が命じられ、その日本家屋は取り壊されそうになったが、そのたびに工事現場に事故が起こり、工事関係者の怪我や死亡が相次ぎ、宙ぶらりんの状態となった。

李登輝時代にも同様のことが相次ぎ、ついに開発は棚上げとなった。

一等地にもかかわらず、今もって開発されず、そのままその日本家屋は残っている・・・。

とのことだった。

 

私は何か、狐につままれたような、狸に化かされたような、不思議な気持ちになった。

それから、ずっと台湾に行って、もう一度きちんと調べたいと思っている。

だが、せっかく台湾に旅行に行く計画も立てていた一昨年、コロナウイルスのために断念せざるを得なくなり、それがずっと今まで続いている。

しかし、仮に行ったとしても、再び老台北やあの娘さんには会えないのかもしれない。

なので、もう行かなくてもいい、行かない方がいいとも思う。

しかし、いま一度、彼らに会いたい気がする。

人間は玉や陶磁器よりもはるかに価値があり、無事に平和に自由に生きているだけでどれだけありがたいことか。

また、それ以上の言葉ではうまく言い表せない、人が生きるとは何かを教えてくれた、老台北とあの娘さんに、いつかもう一度会いたい。

そしてお礼を言いたい。

そう今も強く願っている。

それで、最近少しずつ中国語を勉強している。

今度台湾に行った時は、人と日本語だけではなく中国語で言葉を交わしたいと思う。

 

 

(以上の話は、もちろんエイプリル・フールの嘘です。この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。)

 

 

 

311から11年

311から11年。
この日が来るたびに、思い起して忘れないようにしなければと思うことが、私には三つある。

 

①人間の想像力の弱さ。
②誰にでもいつ何が起こるかわからないことへの謙虚さ。
③世界中が助けてくれたこと。

 

の三つである。

 

①は、主に以下の二つのことについてである。

福島原発があった場所は、元は海面から35mの高い崖だった。
それをわざわざ25m削って10mの高さにして原発を建てた。
ターン・キー方式で米企業に原発をつくらせたため、海水をとるパイプの長さに合わせるためにそうしたとのことである。
そして、311の時に、13mの洪水にやられた。
また、予備電源を原子炉建屋の中でなくタービン建屋の中につくったため、津波により福島第一原発は全電源喪失という事態になった。
この二つのことがなければ、311の時に原発事故まで起きることはなかったろう。
しかし、東電も所轄官庁も、長年まさかそんなに大きな津波が起こるはずはないという想定のもと、上記のような杜撰な対策しか行わなかった。
これは東電や原発行政に携わった人々が格別愚かだったというよりも、人間というものはそもそも極めて限定された想像力しか持たず、長期的な視野を持つことが非常に難しい、誤りうる存在だということなのだと思う。
人間の想像力の貧弱さについて、311の日が来るたびに、痛切に思い起さねばならないと思う。

 

②は、地震津波も含めて、あるいは不慮の事故や病気も含めて、人間というのは儚い存在であり、誰にでもいつ何があるかわからないということである。
日ごろは忘れているが、いつでも死や不条理に襲われうる、弱い儚い存在なのが人間である。
ゆえに、日ごろからいたわり合い、助け合い、分かち合っていくのが人間本来のあるべき姿ではないかと思われる。
東日本大震災に限らないが、災害や災厄を見るたびに、人はそのことを思い起し、謙虚にならねばならないと思う。

 

③は、あの時に世界中の人々が支援の手をさしのべ、応援の声を寄せてくれたことである。
あの時、ウクライナは2000枚の毛布を日本に送ってくれたという。
ロシアの人々もまた、日本に多くの支援物資を送ってくれた。
アメリカがトモダチ作戦を実施して多くの手助けをしてくれたことや台湾からの巨額の義援金も忘れてはならないが、しばしば歴史問題で日本とぎくしゃくすることもある中国や韓国も、あの時は多くの支援の手を日本にさしのべてくれたことは忘れてはならないと思う。
我々は決して孤立した存在ではなく、困った時には助けてくれる多くの隣人がいる。
そしてまた、私たちもそうならねばならないのだと思う。
常に忘れてはならないのは、自分と世界のあらゆるものごとはつながっているということと、自分と他の人々との立場を交換して考えることができることであり、そのことを多くの国々の人々が実践してかつて日本に手を差しのべてくれたことを忘れないことなのだと思う。

 

そしてまた、上記三つのことを踏まえた上で思うのは、原子力発電所はあまりに危険であり、エネルギーをなるべく原発に依存しないようにしていくことは不可欠ということである。
現在、ウクライナにおけるロシアの軍事行動により、原子力発電所も攻撃を受け損傷するのではないかとウクライナや欧州の人々は多大な心配をしている。
日本は、そもそも地震津波などの天災が多い上に、戦争やテロによる脅威を考えれば、狭隘な国土しかない日本にとってやはり原発はあまりにも危険と思われる。

 

月日が経つと何事も風化し、忘れられたり薄まっていくことが多いのかもしれないが、上記のことを、この日が来るたびに、思い起したいと思う。

色川大吉さんの訃報を聞いて

色川大吉さんの訃報を報道で知った。
高校や大学の頃、色川さんの書いた歴史の本が好きでよく読んだ。
民衆史、と言えばいいのだろうか、司馬遼太郎のような英雄の活躍ではなく、明治や昭和の時代の名もなき草莽の人々を描いた歴史は、とても胸を打たれ、多くのことを教えられた。
主に自由民権の歴史や、御自身が体験された昭和の戦争についての著書が多かったと思うけれど、中にはユーラシア大陸を横断した旅行記チベット旅行記などもあって、その幅の広さと豊かさがとても面白かった。
今の時代にはめずらしい、浪漫溢れると言えばいいのか、良い意味で専門に縛られない研究者だったのだろうと思う。
直接は一度もお目にかかったことがないのは残念だけれど、また時折御著書を読み直していきたいと思う。

 

https://www.asahi.com/articles/ASP976FPTP97UCLV00G.html?ref=gnp_digest

終戦ドラマ『しかたなかったと言うてはいかんのです』を見て

終戦ドラマ『しかたなかったと言うてはいかんのです』を見た。
五輪の関係か、民放では本当に戦争の歴史を語り継ぐ番組が今年は少なかったというか、ほとんど見かけなかったが気がするが、NHKはこうしたドラマや他にもいくつか特集をきちんとつくってくれていた。
この作品も、良い作品だったと思う。
ドラマでは若干大学の名称が変えられていたが、戦時中に起った九大病院における米軍捕虜生体解剖事件を描いた作品だった。
登場人物の名前も若干変えられていたが、主人公のモデルは鳥巣太郎だと思われる。
また、巣鴨プリズンにおいて同じ部屋という設定で登場していた冬木という人物のモデルは、冬至堅太郎だと思われる。
冬至堅太郎は福岡では有名な文房具屋さんのTOHJIの社長を戦後つとめた方で、戦犯として死刑判決を受けたものののちに釈放され、膨大な手記を残している。
その一部刊行されたものを以前読んだことがあった。
その手記の中に岡田資陸軍中将が仏教の勉強会を開いて多くの服役中の人々を勇気づけていたことが描かれいていたが、このドラマに出てきあ岡島陸軍中将のモデルは、岡田資だろうと思われた。
そうした記録をきちんとよく調べた上でつくられたことがわかる、良いドラマだったと思う。
どのような状況であれ、非人道的なことにはきちんと抗議し、拒否できる勇気を持つこと。
それがあの時代の大切な教訓の一つだとあらためて思った。

戦没者の遺骨の追悼について

先日、録画していたTBSの「報道特集」を見た。
戦没者の遺骨についての特集だった。


先の大戦で、海外で死亡した日本人は240万人だが、そのうち112人万人の遺骨は未だに収集されずそのままになっていること、
そのうち30万人分が海中にそのままになっているとのことなどが紹介されていた。


私の大叔父はフィリピンのレイテ島で21歳で戦死しているが、空の白木の箱が返ってきただけで、結局遺骨は未だに一切帰ってきていない。


アメリカでは毎年100億円以上を費やして、戦死者の遺骨を集めDNA鑑定などを進めて可能な限り遺族のもとに届けるように努力しているそうである。


戦後の日本は長い間多くの場合ほとんど放置され、最近になってやっと行政が動き出したようであるが、もはやよくわからない場合も多いようである。


2001年に結ばれた国際条約により、2045年までに遺骨を収拾しないと、もはや日本は海底での調査や収拾は行うことができなくなるそうである。


また、番組では、戦前戦中に朝鮮半島出身者で過酷な労働などで日本で亡くなった人々の遺骨の問題についても触れられており、山口県宇部の長生炭鉱では、海底炭鉱の落盤事故で亡くなった多くの朝鮮人労働者の遺骨が海底にそのままになっていることや、東京にある国平寺というお寺には何百という家族がわからないその時代の朝鮮人の遺骨があり、お寺の住職が少しずつ韓国に渡って納骨しているという様子が伝えられていた。
福岡にも海の中道に海底炭鉱があり、当時多くの朝鮮半島出身の労働者が落盤事故で亡くなったそうだが、その遺骨などはどうなっているのだろうか。


また、番組では、A級戦犯として処刑された七名の遺骨について、米軍の公文書館から最近発見された資料についての特集もあり、当時七名の遺骨処理にあたった米軍少佐の孫にあたる方へのインタビューなどもあった。


鬼哭啾啾と言えばいいのか、国や民族は関係なく、どの骨も、平和に生きたかったことを告げたがっているように思えた。
日本の兵隊の場合は赤紙で、朝鮮人労働者の場合は徴用の青紙で、それぞれ紙一枚で事実上強制的に遠いところへ連れられて行って、無残な死を遂げた人々のことを、後世の私たちは忘れてはならないのだと思う。


今年も閣僚や元首相などが靖国神社に参拝したことが告げられ、一部の人々は愛国者ともてはやしていたようだが、本当に戦没者を悼むのであれば、きちんと遺骨を大事に持って帰って埋葬するはずであり、それを長くほったらかしにしてきたそれらの人々に真の愛国心戦没者を弔う気持ちがあるのか甚だ疑わしく思う。